真昼の不思議な物体の作品情報・感想・評価 - 5ページ目

真昼の不思議な物体2000年製作の映画)

Mysterious Object at Noon

上映日:2016年01月09日

製作国:

上映時間:83分

3.9

あらすじ

「真昼の不思議な物体」に投稿された感想・評価

いつか文芸坐で見た「ロングウェイノース」並みの全編爆睡をぶちかました。2:00就寝7:30起床、そこからの22:30まで映画ハシゴのプランの最後だと考えればまあ仕方ないこと……(と納得させる)
再見します
mmmcy

mmmcyの感想・評価

-
うっ、おもしろい…。

「ちょっと、わたしが映らなくなるじゃんかー」と言った女子、すばらしい。
2回目 2019年8月14日@早稲田松竹

相当に面白い。語りのナレーションに合わせて挿入される再現の映像。
語られるエピソードは村人たちの間で吟味がなされ、自らが語る内容がそれまでに語られてきた物語の筋に倣ったものへとしている。途中で村人が足の悪い少年のことを生まれつきかどうかで議論するのは、彼らがこれから語ろうとする内容があらゆる可能性に裏付けられていることを認証しているからだ。
大雑把にフィクションをあり得たかもしれぬ世界であるとするなら、この再現される映像はあらゆる可能性のもとで吟味がなされ、選択された映像といえる。
その結果見ることになるフィクションパートの映像には、現実に村人たちの想像力に裏付けられた世界が創出され、フィクションが寧ろ現実世界以上に現実を垣間見ることを可能とする。
こういう手法で、単なるフィクションだけでは到達し難いようなファンタジー的世界にラストに突入できるのは発明だよなー。
これをやられた以上もう真似できない気もするけど

1回目 2019年2月18日DVD

中学生のとき卒業文集書くのがダルくて、クラスメートに一文ずつ書いてもらうという手法をとったのだが、この映画に通じるやり方を実践してた若き俺ナイスと褒めてやりたい。


これは人の話を聞く練習だ。人から人へリレー形式でパスされていく民話は当然フィクションなのだが、彼らが照れながら語るその話は引き継がれていく過程の中で語り手の話へと変化していく。
それは子供達が「撮影終わり」の合図から普段の彼らの会話の喋り方へと変わるシーンを見れば明らかだ。
彼らが喋る時に意識されるのはこの映画で必然的に挿入されているフレーム。
このフレームこそがこの語られる民話をフィクションであることを暴く装置として機能するが、同時に民話そのものが語り手独自のものとなっていくことを記録する。
大豆

大豆の感想・評価

4.2
インスタレーション、アート、哲学、映画、ドキュメンタリー…この作品をどうカテゴライズしても表しきれない(とりあえず)映画だった。
タイの地方都市が舞台でマグロを売る販売車の女の人が小さい時に自分が売られた過去を話す。そして「自分以外の話をしてくれないか?」と質問を受けて話を作っていく。次にインタビューされる人は「この話の続きは何だと思う?」と聞かれ物語のリレーが舞踊家、おばさん、小学生…とつながれて、展開していく。
こんな作品初めてみた。ジャケットの通り、タイの人々の集団無意識が一つの物語を紡いでいくようで。刺激的な作品だ。
人が消えたり、気を失ったら違う人が憑依してたりタイの人は仏教がかんけいあるのか、形而上学的展開を展開させるのに慣れている?ようで面白かった。きっと日常的にあることなんだろう、と思わせるくらい。タイの謎な文化を再認識
tamatebo

tamateboの感想・評価

5.0
あらすじにある「国中を旅し、出会った人たちに物語の続きを創作してもらう」というフォーマットさえ当てはめればどの国でも撮影できるものだろうか。
2017年12月鑑賞。
道端にたむろしている不良少年たちが物語を語りはじめる、フィクションの映像になりファスナークローゼットの中に死体を隠そうとしている少年がファスナーを開いたときに死体の頭が倒れてくる、ここでカットが切り替わり語っている不良少年たちがカメラを見つめているショットになる。それが語られているフィクションの男の子のを見つめる視線に感じ、自分が今どんな物語を観ているのかが不安定になってくる。
観終わってからこの映画の中でドキュメントでもフィクションでも車や電車に乗って移動している映像が何度もあったのが気になった。そして冒頭の車の移動シーンの終わりにインタビュアーを乗せた運転手か誰かがこういっていたことを思い出す
「もう少しここら辺をぐるぐる回りますか?」なんだかそれがフィクションの中で最後の方に語られている先生と少年がタイの田舎からバンコクを目指してバンコクで暮らしても抜け出せないなにかがある。みたいなことがまたドキュメントとフィクションを接続していると感じた。
Kimura

Kimuraの感想・評価

5.0
ドキュメンタリー色つよい。大好き。使用曲が最高。nadiaの曲よくおぼえてる
人々の語る話をリレー形式で繋げ、それを映像にしたり話した人物を撮ったりしたものをコラージュした作品だが、こんなとんでもないアイディアの映画で長編デビューを飾るなんてさすがアピチャッポンと言わざるを得ない

しかもアイディアの大胆さだけでなく、そこにしっかり映像や物語についての哲学的探究としての意味合いも含んでいて、この作品が撮影行為に対して良い意味で意識の高い人物によって撮られたことがよくわかる

映画を単なる物語を語るツールや記録としてしか考えていない人間にとってこの作品は意味不明でしかないだろうけど、そこに芸術的かつ哲学的意味合いを求める者にとってはとても大いなるものとして映ることだろう
AS

ASの感想・評価

3.8
2016.1.16@イメージフォーラム
2019.6.21@アテネ・フランセ
そーた

そーたの感想・評価

3.2
話すことって難しい

子供の頃によく
「いつ、どこで、誰が、何をした」ゲームをやりました。

人数分の紙を用意して、
紙の上にまず"いつ"を書いて、
書いたら見えないように紙を折る。

それを隣のやつと交換して、
同じ要領で順次最後の項目まで埋めていく。

するとランダムに結びつけられた言葉達による、
摩訶不思議な文章が完成するという遊び。

いつだかの大晦日に久々にやってみたら、
面白いのなんの。
皆でバカ笑いをしたのが記憶に新しいです。

さてさて、
こんな即興性の要素を存分に実写化したような映画がこれ。

タイの奇才、アピチャッタポン・ウィーラセータクンが放つ奇想天外連想ゲーム絵巻。

惣菜屋のおばちゃんが半ば強制的に即興で話を作らされるところから"物語"がスタート。

あとは、別の人にその話の続きを次々に考えてもらい、
終着地点が見えないまま、
妙な浮遊感を漂わせながらゴールを目指すという作品。

たまに再現VTRが挿入されて、
そこが見応え充分なんだろうけれど、
まぁ正直眠くなってしまう映画ではある。

ただね、
この実験的な発想と、市井の人にスポットを向けるというドキュメンタリータッチの作風が妙に癖になる。

人が話をしていることそのものの心地よさが感じれるようで、
そんなほのぼの感が半端ではない。

だからこその睡魔だったりするのかもしれないな。

印象に残ったシーンが一つ。
演者であるはずの子供がカットの合図と共にONからOFFモードに突入し、
撮影機材で遊び始めたりする。

不意に劇中と現実の垣根が取っ払われる瞬間が訪れる。

もう何でもありなんだと流して見ていたんだけれど、
後で、よく考えてみると非常に面白いシーン。

このシーンでONからOFFに変わっているのは話す際のスタンス。

演技をするONの状態から普段のOFF状態に遷移しているというわけ。

僕達ってある種の物語性を伴う発話の際は、
知らず知らずに頭のスイッチがONの状態になる。

すると、全くもって自由な話ができなくなってしまう。

もちろん普段のとりとめもない会話ではOFFモードなんだろうけれど、
職場など日々の生活の場面ではONの時が圧倒的に多く、
何かしらの制約の上で話をしている。

それが紛れもなく面倒で面白くない。

だからこそ。
映画の最後に登場する小学生くらいの子供達がじつにニクい。

彼らのアドリブ力に単純に感服してしまうのは、
要するに子供にはまだまださっき言及した発話におけるON/OFFのスイッチが存在しないからなんだと思う。

それが良いのか悪いのかは分からない。

でも、羨ましい。
いや、非常に羨ましい。

常に即興的な会話が許され、
誰もがそれを楽しむことが出来るのならばどんなに素晴らしいことか。

僕らが大晦日にやったゲームが、
子供の時よりも一層の楽しさだったのは、
あの時、普段課せられている話の制約から脱して物語を自由に創作できたからなんだろうな。

紙とペンがあれば出来る簡単なリハビリ。
簡単だからこそ普段の不自由さが浮き彫りになるようで、
なんだか、もっと素直に生きたいとそう願うばかり。

ということで、
そんな願いを込めアピチャッタポン・ウィーラセータクンにちなんだ、
15拍子の曲を仲間達と作り上げました。

またこれが中々、
自由ままならぬ曲なんだけれどな。