ニトー

太秦ライムライトのニトーのレビュー・感想・評価

太秦ライムライト(2013年製作の映画)
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時代に取り残された老人の悲哀やら哀愁やら、そういうものかと思いきやそうでもなかった。もちろん、そういうものもあるんだけれど、むしろ、わたしの印象としては物語の継承という点で「クボ」に近いものを感じ、けれどやはり「クボ」とは違うものであるということを確信する。

冒頭、チャップリンの「ライムライト」と同じように「ライムライトの魔力若者の登場に老人は消える」の文字が浮かび上がると、障子越しの影だけによる殺陣が始まる。
殺陣に始まり殺陣に終わるのがこの映画なのですが、こういう言い方で合っているとすれば、主人公の香美山=福本清三に寄り添った映画だろう。もともとのコンセプトからしてそうであることは否定しようのない事実ではあろうけれど、似た気質のある「俳優 亀岡拓次」のどうしようもなさに比べるとその完成度は月と鼈である。あれはヤスケンじゃないと見れたものではないんですが、ヤスケンのせいでダメな映画になっているという側面もあったりするのですが、「太秦ライムライト」は違う。

何が違うか。それはひとつに演出。
特に前半の魂の継承者たる伊賀さつきとの交流が描かれるまでの、時代に取り残された香美山の哀愁を出すために、徹底的に彼の背中を撮っている。そして、どこかおぼつかなさすら見いだせてしまいそうな福本清三の佇まいと相まって、この背中を見るだけで胸を締め付けられるような思いになった。

邦画にありがちなウェット(というかベタベタした心情描写)でダッサい演出が少なく全体的に落ち着いた空気に満ちている。それは福本清三の顔がそうさせている部分が大きい。香美山のセリフを極力排しているのは、監督を含めた制作陣が彼の顔だけでイケると踏んだからだろうし、それは正しい。クールな演出と顔に刻まれた無数のシワが紡ぎ出す老人の言葉なきリリックは、大きな話の起伏やどんでん返しなどなくともそれだけで引き込まれていく。ただまあ、ウェットな演出がまったくないということではなく、全体的にクールに仕上げているからこそ、その些細なウェット描写が際立ってしまうという残念ポイントもなくもないのですが。

あの若手監督とかアイドル俳優とかプロデューサーのくだりは、あまりにカリカチュアされすぎていないかと思いつつ、でも実際にああいうことってあるのだろうなーと納得できてしまう芸能界の闇深さに思いを馳せたり。
そんなこんなで伊賀さつきは出世街道をまっしぐら。一方で香美山は時代劇の激減に伴い仕事をなくし、お払い箱になった彼はカメラの前からパークのチャンバラショーに居場所を移していた。老いと長年の殺陣による肘の故障に悩まされ竹光(なのか模造刀なのかわからないけれど)すら握るのが難しくなってくる。同じ稽古場で木刀を降った仲間も斬られ役を引退してラーメン屋をひらいたりと、ともかく老いの世知辛さを描く。

そんなおり、東京で売れた伊賀さつきが京都に戻り時代劇映画に出ることになり、彼女は是非とも香美山にも出て欲しいと頼む。しかし彼はすでに引退して農作をしていた。

で、自分はこの伊賀と香美山の一連のシーンが個人的に結構好きで、子供時代の香美山がシームレスに繋がっていって丘(?)の上で二人が夕日をバックに稽古をするところなんかは、そのシーンだけをとるとギャグっぽくもあるんですが積み重ねのおかげでジーンとくる。


色々と書いてきたものの、結局はひとつだけ本当にハッとするカットがあって、それが個人的にこの映画に胸を打たれたといっても過言ではない。
それは、香美山の稽古のシーン。背中から倒れていって「地面に水没」すると過去に直結するというあのカット。ここは本当に素晴らしいと思う。これだけでもこの映画を観る価値はある。

ほかにも、最後に松方弘樹に斬りかかるところの師弟だからこそ通じ合えた本番のアドリブとか、そこからのラストの切られるカットとか、福本清三の黒目がちな目と相まってともかく良かった。
あとやっぱり松方弘樹の殺陣がすごいです。晩年にいたってもそれを再確認できる貴重な一本でもあります。
実はこの映画を監督した落合賢氏には「タイガーマスク」という前科があったりするのですが、あっちは色々とゴタゴタもありそうですし、そのときの経験がこの映画にも生かされていそう(笑)ですから忘れてあげましょう。

北野映画とまではいかないけれど(あそこまでいっちゃうとリリックどころかエピックなので)、もっと徹底して抑えてくれていたりちょっと抜けたシーンがあったりしたので、その辺がなかったらなぁーと思ったりしましたが、かなり良い作品であることは言えると思いますです。
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