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007 スペクターのyoshiのネタバレレビュー・内容・結末

007 スペクター(2015年製作の映画)
4.2

このレビューはネタバレを含みます

私は007映画のファンであり、クレイグ・ボンドシリーズの大ファンである。

「カジノ・ロワイヤル」は007誕生編。
「慰めの報酬」は復讐編。
「スカイフォール」は新生編だった。

本作「スペクター」は【総決算】である。
ダニエル・クレイグが演じてきたボンドという人間のある到達点が見られる。
そして50年に渡るボンド映画全てをまとめあげようとした怪作だ。

公開時に劇場で鑑賞した時は、無理矢理に前3作を関連づけた展開と、オールドファンに媚を売るようなオマージュの多さに面食らい、評価は低かったのだが、何度か見直すうちに、今はそのような考えに至った。

総決算の証明❶
葛藤を止めたボンド

クレイグ・ボンドのシリーズではボンド自身の内面の成長が一貫して描かれてきた。

前3作を演出する監督がそれぞれ違うのに関わらず、観客がボンドの変化を受け取れるのは、ボンドを演じる演技巧者ダニエル・クレイグの功績だ。
ボンドという人間を深く考え、彼なりに解釈して表現しているからだ。

前作「スカイフォール」で明らかになったが、ボンドは、少年期の両親の不在による孤独な心を、祖国に身を捧げることによって埋めていた。

「殺しの許可証」を持つのを良いことに、無謀で破滅的な破壊を繰り返し、行きずりの女と寝るという行為は、幼い頃にボンドが受けるべきであった愛情の欠落から来ているのだというクレイグの解釈に違いない。

愛情不足による自暴自棄で破滅型の少年。
それがクレイグの解釈したボンドの内面であろう。「カジノ・ロワイヤル」ではそれが色濃く出ている。

だが、いつも「死」に取り付かれた彼の心は、満たされないばかりか、余計に孤独を深めていく。
愛した女性ヴェスパーが死に、母親がわりのMも失う。
政府に雇われ、仕事の上ではやり甲斐と自己有用感があるかもしれないが、所詮それが「殺し屋」の宿命であり、呪いなのである。

前作「スカイフォール」では、その宿命を受け入れ、ボンドは国家を守る兵士と新生した。
ゆえに今作では、覚悟して任務に望んでおり、これまでのような精神的な葛藤は見られない。
行動にも全く焦りや迷いが見られない。

とはいえ、内面が全く描かれない訳ではない。
レア・セドゥー演じるMr.ホワイトの娘、マドレーヌにベッドを共にするのを拒否されたボンドが、少年のようにふざけて、ネズミに話しかけるシーンは象徴的だ。

スカイフォールでボンドの故郷の屋敷を管理していたキンケイドは、「両親が死んだとき、ジェームズは地下の穴から二日出てこなかった。しかし出てきたときには、もう子供じゃなかった」と証言している。

プロたる者、素の自分に戻るのが、任務を離れた時だけだとするならば、ネズミに話しかける少年のようなボンドの精神年齢は、いまだに穴倉のなかの孤独な子供なのかもしれない。

これまでの歴代のボンドも少年性を残していた。
コネリーボンドはマニー・ペニーの前では帽子を投げて戯けて見せ、ムーア・ボンドはイタズラな軽口が多く、ブロスナン・ボンドはQの秘密兵器をおもちゃのように扱い、ことごとく破壊した。

本作のクレイグ・ボンドはプロに徹して、葛藤を止める。
仕事に感情を持ち込まない。
因縁のあるmr.ホワイトと、過去を引きずらずに非常にドライな会話と情報交換がそれを象徴している。

一般的な大人の男がそうであるように、仕事に徹するがゆえに「守る」と父親のmr.ホワイトに約束してから、最初はマドレーヌを抱かない。
そして仕事を離れた時だけに見せる少年性が、ボンドが大人になった円熟期を形作っている。

総決算の証明❷
ボンド的な要素の結集

007を昔から知っている者ならば、本作での過去作の引用の多さに驚いたはずだ。

クレイグ・ボンドが紡いできた現代的で現実味を帯びたシリアス路線に心酔していた者には驚きの連続だ。
ここが本作の賛否両論の分かれ目だと言っていい。

本作のアヴァンタイトルでは、メキシコの祭り「死者の日」で仮装した群衆の頭上を、ヘリコプターで飛び回り格闘するアクションが展開する。

この、何度も空中を往復するヘリのアクションは、「ユア・アイズ・オンリー」冒頭でのブロフェルド?との決戦の引用。
死と音楽が結びつくイメージは「死ぬのは奴らだ」のニューオリンズの葬送を思わせる。

他にもシリーズからの引用は多い。
雪山にある病院は、「女王陛下の007」からであり、「ゴールドフィンガー」に代表される拷問器具やボンドカーが活躍する。

往年の悪役「ジョーズ」をイメージしたようなデヴィッド・バウティスタ演じるしつこく追ってくる大男との列車での死闘は「私を愛したスパイ」、または「ロシアより愛をこめて」のイメージである。

先述のボンドがねずみに話しかけるシーンですら「ダイヤモンドは永遠に」の引用だ。
挙げていくとキリがない。

確かにクレイグ・ボンドのシリーズでは、過去作の名シーンがいくつか引用されていた。
だが、本作の異常なまでのオマージュ、セルフパロディの多さは、シリーズへの愛を通り越して、病的ですらある。

そうやって形づくられる異様な「ボンド的要素」の集合体である本作には、従来のボンド映画のような娯楽的な明快さがある。
しかしあまりに煌びやかであるために戸惑ってしまう。

この驚くべき「ボンド的要素」の多さは途方もなく美学的であり、同時に退廃的な試みであるともいえる。

メンデス監督は「スカイフォール」で時代錯誤なボンドの在り方と、国として力を失いつつある英国を重ね、破壊し、新生させた。

にも関わらず、本作では「時代遅れ」「マンネリ」とされてきた、かつての無双なボンドに原点回帰したのだ。

21世期になるにあたり、007は変化を求められていたにも関わらず、だ。

トム・クルーズのMIシリーズや、マット・デイモンのボーン・シリーズを例にとるまでもなく、無双のスパイが活躍するアクション映画は007の登場以来、数多く生み出された。

「いまさら、なぜ?」と言う印象は否めない。

しかしながら、今までのボンドの成長を辿り、ボンドの要素をひとつにまとめたクレイグ・ボンドが、圧倒的な力を手にする。

拳銃ひとつを手にして、悪漢をなぎ倒して行くボンドの神がかった強さは、まさにシリーズ最強といっていい。

新米007として始まったクレイグ・ボンドが、とうとう「強さの象徴」となったのである。

「ボンド的要素」の結集は、クレイグ・ボンドが成長につれ、身に付けた強さをまとめ、強調するためだと言って良い。

精神的に弱く、泥臭く、覚束ない戦いをしていたボンドが成長した結果であり、クレイグ・ボンドの肉体的・精神的強さの総決算であるのだ。

ボンドの半生を歩んだクレイグ・ボンドシリーズの最終作の予定だった今作。
様々なオマージュは、ボンドの人生の円熟期に、ボンドの強さの全てを結集させたかったのだ。

原点回帰したボンドに、この圧倒的な強さは必然だったのかもしれない。


総決算の証明❸
ボンドの過去をも包括する悪役。

本作に形づくるのが、007シリーズの要素を総動員したジェームズ・ボンドの強さであるならば、それに対抗できるのは、過去作で最大規模の悪の組織「スペクター」である。

作中でとうとう正体を現した、スペクターの首領ブロフェルドは、今までのクレイグ・ボンドの戦いについて、「私だよ、ジェームズ。全部私がやった」と、驚くべきことを言い出す。
ブロフェルドが全てを闇で操っていたというのだ。

ここも賛否両論となるところだ。
前作で破壊と新生がなされたのに関わらず、前作だけでなく、過去3作にも実は繋がりがあったと言う。

幼い頃、父親が自分よりもボンドに入れ込んでいたことに嫉妬したからだと言う。
全ての事件が私怨に起因するというのが、唐突すぎて納得し難い。

無理矢理、過去3作と繋がりを持たせたという印象は、どうしても否めない。

ダニエル・クレイグが最後のボンド作品としたかったことから、そのフィナーレにふさわしい悪役を用意しようとした製作側・演出側の餞であると思いたい。

無理がありながら、この悪役の荒唐無稽さは、まさしく過去のボンド映画らしく、どこか微笑ましい。

これまでのボンド映画の悪役も、金や権力は持っているが、コンプレックスの塊という人物が多かったからだ。

このような、明らかに後付けの設定は、劇中でも図示されるタコの形を悪の組織のイメージとして象徴化したかったからだろう。

ブロフェルドが頭となり、今までの悪役たちがその脚を構成するという形は、頭が残っている限り、脚は永久的に再生し生え代わるという、組織の強固さを示している。

本作の正義と悪が表現するものは、個人の強さの象徴と、組織の強さの象徴との対決なのである。

しかし逆にいえば、全ての原因となるタコの頭をつぶすことができれば、クレイグ・ボンドの全ての戦いは終結を迎える。

長かったクレイグ・ボンドの孤独な精神の旅は、本作でついに終わりを迎える(はずだった。)

ボンド映画の総決算と言える絶大な力がありながら、歴代のボンドとは異なり、ナイーヴな内面を持ったクレイグ・ボンドは、最大の敵ブロフェルドを、あろうことか殺さない。

「(殺し屋である)貴方は変われない」と言ったマドレーヌの前で、ボンドは敵を殺さず、法の裁きに任せる。

ブロフェルドを撃つことは、これまでの私怨を晴らすことになり、ボンドとブロフェルドは同じ人間的価値に成り下がってしまうからだ。

ここにはボンドの心の成長が見られる。
ボンドは変わってみせようというのだ。

「殺しの許可証」を行使しないと言うことは、00として生きることを辞めることをも意味する。

撃たないことで、自分に巣食う暗黒の心にケリをつけ、ボンドは新たな出発を迎える。
クレイグ・ボンドのフィナーレとしては、この上ない終わり方だ。


総決算の証明❹
ボンド映画としての捉え方

007シリーズでは、オープニングで銃口に狙われたボンドが、振り向きざまに拳銃を撃つ「ガンバレル」シーンがお馴染みだ。

ダニエル・クレイグがボンドを演じる、このシリーズでは、00エージェントになりたての頼りない存在が、真のスパイへと成長するというコンセプトもあり、「ガンバレル」シーンは、前3作では劇中かラストに配置されていた。

だが本作では、それが堂々とオープニングに置かれている。
これは、前作「スカイフォール」で、とうとうクレイグ・ボンドが真の007となったので、本作は王道のボンド映画だ、という宣言だったのだろう。

ゆえに、ボンドは無双であり、プロフェッショナルとして、かつての葛藤もなく、任務遂行に突き進む。

そしてクレイグ・ボンドはこれが最後だという前提があったため、これまでに登場したボンドの味方、M、Q、マニーペニーそれぞれに見せ場が用意されている。

加えて、ボンドのキャラクターやアクションだけでなく、劇中の映像も、クレイグ以前のボンド映画のエッセンスを受け継いでいる。

メキシコシティ、ローマ、オーストリアのソルデン、ロンドンと風光明美な観光地で、派手なアクションを前3作より多く行い、世界を駆け巡る「ボンド映画」という強い印象を受ける。

堂々とした各地の遠景は、それぞれが絵画のように、異国情緒を写し取り、美術館で絵を眺めるような錯覚にさえ陥る。

特にローマでのカーチェイスは、歴史的な街並みの夜景の中を、最新型のスーパーカーが滑るように街を走るのが美しい。

遺跡と現代車の対比は、そのまま旧世代と新世代の対比のように感じられる。

【温故知新】
やはり、この言葉が本作にはよく似合う。

かつてのボンド映画を知っている人は、過去作品の数多くのオマージュからボンドを懐かしむことができる。

原点回帰したために、かつてのボンド映画を知らない人は、本来のボンド映画を知ることができる。

悩める人間性を描いたクレイグ・ボンドに心酔していた者にとっては物足りなく思うのは否めないが、かつてのファンと新しいファンの両方にとって、大変親切な作りとも言える。

本作は、ボンド映画が娯楽映画の王道に、復帰を宣言したのだ。

クレイグ・ボンドは自身の役に区切りをつけただけでなく、ボンド映画全てを総括してしまった。

マドレーヌとDB5で共に去るラストカットは、ボンドを辞めて、大切な物(007での貴重な体験)を得て、現実に戻るクレイグ本人を表している。

クレイグ・ボンドはこの作品で引退し、ボンドから解放させてあげるべきだったと思う。

冒頭に戻る。
この作品は、ボンドという人間だけでなく、50年に渡るボンド映画全てを総括しようとした怪作である。
その広い範囲の視野は、大いに評価したい。

追記。
2020年公開のクレイグ・ボンド続投の次回作のあらすじの情報がようやく入ってきた。

「既に引退していたボンド」とあるので、円熟期を通り越して、老いを感じるボンドになるかもしれないと予想している。

今度こそクレイグ・ボンドを解放させてあげてほしい。
ニュースで知ったが、もはやムーア・ボンドよりも長い在任期間になってしまったそうだ。

CIAのフィリックス・ライターが再登場することから、再び現実味を帯びたシリアス路線を期待している。
そして、すでに引退したボンドが、再び任務に復帰する理由は、再登場するマドレーヌが死ぬから…?
と現段階では予想しているが、それでは「ボーン・スプレマシー」の冒頭であり、「慰めの報酬」と同じ復讐譚だ。

この荒唐無稽な娯楽作となった「スペクター」から、続投を懇願したクレイグ・ボンドファンが望むシリアス路線に、どう軌道修正するかが、見ものだと思っている。
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