純

未来を花束にしての純のレビュー・感想・評価

未来を花束にして(2015年製作の映画)
4.5
闘うには覚悟がいる。何が捨てられなくて、何なら諦められるのか。ひとは誰かに訴えたいことがあるとき、全力で相手にぶつかっていく。最初は言葉で。そして中には、それがだめなら文字通り死ぬ覚悟で、体当たりする者だって現れる。

本作はおよそ100年前に女性参政権を得るために闘ったサフラジェットたちの死闘の物語。ジェンダー的要素が強いから、鑑賞後の印象もすごく分かれると思うし、「このシーンに惹かれた」という場所も個々で変わってくると私は思う。その上で、私が感じたことをあくまで一意見として、述べていきたい。

はじめに言うと、私はこの作品が本当に本当に好きで、サフラジェットたちに嫌悪感を抱くことはなかった。女性だからかもしれないけど、何よりも、モードが当初は急進的なサフラジェットたちを好ましく思っていなかったのに、あることをきっかけに闘おうと決意するまでの流れが、丁寧ですごく分かりやすいからだと思う。そして胸にくる。店に石を投げつけてガラスを割ったり、建物を爆発したり、「テロと同じじゃん」「これが正しい行為なの?」と言われるに十分な暴力的行為なんだとは、私も思う。でも、それはモードだって一緒だった。サフラジェットたちも「ひとは傷つけない」ことを前提にそういった悪質行為に走っていたことは、さりげなく本作の台詞でも語られている。彼女たちは傷つけるために攻撃したわけじゃない。気づいてもらうためだけに、攻撃していた。そんな世界が、汚いと思った。

当時の女性たちはそれまで男性を立てて、ずっと「あるべき在り方」を押し付けられていた。そしてそれに抗わなかった。当たり前だと思ってきたからだ。それでも、自分の身体に増えていく火傷の跡、周りで若死にしていく同業者の皆を思えば、悲観せずにはいられない。長時間労働に見合わない低賃金という現実。今でも十分に虐げられているのに、選挙権さえ、ないなんて。そういうものだと思って生きてきた。でも、もしかしたら。「あなたにとって選挙権とは何ですか?」「わかりません。今までなくて当然だと思ってきたからです」「では、なぜ公聴会に?」「もしかしたら…別の生き方が…あるんじゃないかと思って…」そう、もしかしたらあるのかもしれない。どんなに消えそうな可能性の一部だとしても、そこにあるなら、諦めたくないと思って。この公聴会のシーンのとき、モードは政府に対して攻撃をしようなどとは思いもしていない。でも、希望を夢見るということはつまり、現実を変えたいと無意識にでも思っていたからだ。ずっと黙ってきた。従ってきた。諦めてきた。死んだように生きてきた。でも、本当はうんざりなんだって、彼女は気づくのだ。

公聴会でのモードの演説は評判で、彼女も政府の憲法改正が見直されるかどうかの発表を聞きに行く。しかし、協議すると言っておいて無下に却下されたことで、モードの希望が憎悪に変わる。嘘つきだ、と叫ぶ女性たち。その女性たちを、暴力で容赦なく痛めつける男性たち。何なんだ。女性は発言する権利もなく、男性は女性の口を法的に封じる権利があるのか。前述したとおり、テロ行為は正しくない反抗の仕方だと、モードは分かっていた。でも、もっと正しくないことが、男性たちによって行われていた。それに、気づかせないといけなかった。「正しくない」と女性を抑えつける男性たちに、正しくないことをしてるのはどっちなのか、答えさせないといけない。じゃあ、正しくないらしいことをする女性たちに対するお前たちの行為は正しいのか、男性はそんなに偉いのか、法に逃げずに暴力で黙らせずに、きちんと証明してみろよ。

女性たちは男性に、法律に、世界に、気づいてほしいと願いながら爆弾を投げた。投獄に耐えた。神経を衰弱させた。サフラジェットたちの団結力や忍耐強さについては、もう多くのひとが語っていることで、闘う女性たちの強さについては私は省略したい。私が動かされたのは、闘う女性たちの弱さのほうだから。

先ほど書いた公聴会の一件が、モードがサフラジェットとして活動を本格化させる大きなきっかけになったことは間違いない。でも、もうひとつ、モードに「こんな世界はおかしい」と思わせたのが、指揮官が若い洗濯娘に手を出しているのを目撃したことだと私は思う。作品中、彼女も過去にそういった辱めを受けたことが仄めかされるんだけど、過去の自分を救いたいとかそういう自己満足的な感情からじゃなくて、このままだと延々と恵まれない待遇が自分たちの娘や孫に受け継がれる、そのことがモードは耐えられなかったんだろう。実際、作品を通して「次世代」のために闘うという女性たちの姿が印象的だった。パンクハースト夫人の演説に心動かされるモードを描くシーンでも、彼女が強く頷いたのは「娘たちにはこんな思いをさせたくない」といった、夫人の未来志向の考えが発せられたときだった。

すごく、母親らしいと思った。何が捨てられなくて、何なら諦められるのか。女性たちの答えは皆一緒だ。自分の身体、命なら捨てられる。でも未来の女性たちの生き方を、諦めたくない。モードには娘ではなく息子がいて、家族を失う前に「娘だったらどんな生き方だったかな」と夫に尋ねるシーンがあった。「お前と同じだろ」耐えられないんだろうな。家族のために身を削って働いている自分自身は諦めてしまえても、その家族である娘が苦しめられていたら、もう、何のための火傷なんだ、病気なんだ、若死になんだ。サフラジェットの中に、妊娠を理由に活動を辞めたひとがいたことを思い出す。それは自分が死んだら、新しい命も殺すことになるから。女性は結局、子どものためになら何もかもを捨ててしまえる。でも、子どもだけは意地でも守り通したいって、思うんだろう。

個人的なことを書かせてもらうと、実は私はずっと、自分は母親から嫌われていると思っていた。友達に嫌いって言うのと、母親に嫌いって言うのとでは意味が違い過ぎるとも思っていて、それはつまり、母親を嫌いになるのは正しくないことで、正しくないことをする私は悪い子でだめな子なんだと、自分が嫌になっていた。お母さんとは友達みたいで、と言える女の子たちが世界で一番羨ましかったし、私が悪い子だからそうなれなくて、神様からの罰なんだから黙って我慢するしかないんだと言い聞かせていた。もちろん母親の好きなところもあって、だから余計に苦しかったのかなと思う。どんなに嫌なところがあっても好きなところは消えなくて、でも好きなところがどれだけたくさんあろうと、自分をどん底に突き落とすほどの嫌なところは、過去は、消えてくれないから。私が恋愛ものよりも家族ものの映画に心を突き動かされるのは、そういう映画を渇望してたくさん観るのは、救いを求めているからなのかもしれないなと、ふと思った。そしてだからこそ、子どもたちのこと、次世代の女性たちのことを思って行動したり、諦めたりするとサフラジェットたちを見て、ただの急進派だって言い切りたくないと思ったし、私のお母さんも、きっと今までにたくさん、私のために諦めてきたこと、捨ててきたことがあるはずなんだと思えた。母親の思いは、100年前も今も100年後も、変わらないもののひとつだろう。

そういう尊い思いを、花束になんか託すなよ、と思う。そんなすぐ萎れてしまうような薄っぺらい弱い気持ちじゃないんだって、せっかく伝えてくれているのに。女性は弱いよ。普通に弱い。男性にかなわないところだって、数えだしたらきりがないくらい出てくるだろう。最後にひとりの犠牲を出して女性参政権獲得への道は開けるけど、結局、そうじゃん。女性は弱いから、犠牲でも出さないと、振り向いてもらえなかったんだよ。彼女たちの思いの強さとかじゃなくて、汚い世界と、その汚い世界に程度の差はあれど染まっていた自分たちを恥じてくれと思う。当時何も思えないくらい感覚が麻痺していた男女皆に、弱い彼女の死に責任があるんじゃないのか。

でも、矛盾するようだけど、女性にも強いところはある。ただ、その強いところは、弱さがあってこその強さなんじゃないかって、私は思うんだよね。力に屈してしまって、抗えなくて、そういう弱さがなかったら、女性にしかない強みなんかひとつも、存在しなかった。だから弱いことを否定するのをやめたい。弱いことを誇りにしたい。弱いけど同じ世界で、ちゃんと自分の足で立って、生活して、生きてるって、言いたい。エミリーは弱いけど強いって、本当は皆わかってるんだろ。

大好きなキャリー・マリガンをスクリーンで観るのは『華麗なるギャツビー』以来で、やっぱり表情が好きだな、と思った。儚げだけど暗い何かを漂わせた役が、本当に似合う女優さんだと思う。一方、メリル・ストリープは本当に小さな役だけど、存在感がすごい。彼女の演技力はもう言うまでもないけど、やっぱり私はいつも、彼女の訛りの習得度に感動してしまう。これまでに出た作品で、いったいどれだけの訛りをマスターして喋ってるんだって思うよね。今作でも、さすが「訛りの女王」の異名を持ち合わせた女優だなという風格があった。

小さなことだけど、予告で流れてたLandslideが劇中に流れなくて少しだけ残念だったな。思い入れのある曲だし、この作品用にアレンジされた音も結構好きだったし。でも、初めてプレミアムソファシートで映画を観た今回の居心地、最高に良かった…。毎回あの席で映画観たい。

最後に。この作品を通して、歴史的背景ももちろんだけど、政治的枠組みを超えて、母親として、妻として、女性として生きる彼女たちの生き様を、多くのひとに観てほしい。そして、花束みたいな、いずれなくなってしまうような形のあるものとしてじゃなくて、形のないものとして、受け取って受け継いでほしい。形の残る贈り物は傷ついたり壊れたりしてしまう。それもきっと大切なことだ。でも、サフラジェットたちの思いは、形なんかないだろう。少なくとも、枯れてしまう花束になんか、私は死んでも変えてほしくない。
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