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ヴィオレッタのTnTのネタバレレビュー・内容・結末

ヴィオレッタ(2011年製作の映画)
3.5

このレビューはネタバレを含みます

 冒頭、少女をカメラはなめるようにワンカットで追尾する。その後、原題「My Little Princess」の文字が映し出されるのだが、それだけでこの映画が少女へのフェティシズムの視線と、母の異常な愛情の物語の開幕を宣言する。そしてこれが、実話としてエヴァ・イオネスコ自身が監督したところがさらに拗れており、見ていて終始解釈に困るというか、親子水入らずのその水になってしまうかのような居たたまれなさを感じた。

 それはやはり愛憎物語なわけで、世間一般がもつ児童ポルノになりかねない写真を撮った母を、必ずしも一方的に批判しているわけではない。しかし、今作の中の少女は最終的にその母に抗うわけである。また、その母もまた母に捨てられた過去があり、そうなってくるとこの愛憎はさらに深まり、解決とか告発とかの類に収まらなくなる。と思えば今作撮影して数年後、エヴァ・イオネスコは母を訴え賠償金を得ている。うーむ、そうなるとあの愛憎劇は一体なんだったのかと余計に混乱する。まぁ、つまり現実的な裁判だとかニュースでは今作で描かれるような感情の細部は抜け落ちてしまうということなのかもしれない。ある意味、裁判を起こす前に、エヴァは利害からこぼれ落ちる感情を記録しておきたかったのかもしれない。

 誰か忘れたが、そして言葉も曖昧にしか記憶してないが、「芸術は生が死ぬことで完成する」みたいなのがあった気がする。それは、とどのつまり芸術は生たり得ないということであると思うのだ。それはだから、生きてる人を脅かすような存在に芸術は成りうるということだ。それは今作で芸術写真によってエヴァが子供時代を棒に振ってしまうことも、その一つと言える。この映画を観て思うのは、人はまさしく生であり、芸術という死によって永遠に世に残される重大さに比べるならば、生こそ尊重しなければならないということであった。昨今映画業界の、特に女性の性被害が多い。それがもし名作に欠かせない行為であっても、有限な命の尊厳を脅かすならば否定されるべきだと思った。たかが芸術ですよ、人間が上位で芸術なんてその下です。

 バタイユやバルテュスの名が言及される今作は、そうした芸術を好む自分にとって上記の問題を改めて気づかされるものであった。シュルレアリスム、特に写真がその分野においては、現実の倫理を犯してしまうというのは、大学の講義でも習ったのを思い出す。シュルレアリスム、またの名を”超現実”、それは現実の文脈を”超える”ことで生まれるわけで、逆にそれが今作のエヴァという生身の身体を忘却してしまうことにもつながる。今作もまた、カメラマンの母の指示という裏側があることにより、その忘却される身体性を失わせないようにしている。時折耽美的で美しく見えるエヴァも、学校の中に置かれることでそのファッションの異端性が浮き彫りになる。芸術は、やはり人生(日常)においては下位なのがわかる。

 ラスト、母をついに克服し、走って逃げるエヴァ。しかしこの脱走劇、最初はイマジナリーラインが明確でないため、エヴァは最初母に向かって走っていったかのようにも見えた。これがまた彼女らの決別がはっきりとしたものでない、ズブズブさを過ぎらす。そしてその逃げる背中で終わり、エヴァは最後は我々に表情を窺わせない。それは、つまり我々の視線からも逃げたことになり、我々の目もまた同様の危うさ故に忌避されたのだとも言える。芸術は、美しいなりにその裏にちゃんとした欲望があって、その欲する目の危険性を念頭に置いて鑑賞する倫理観を持つべきなのだ(芸術を否定肯定しているわけではなく、意識的であろうということ)。
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