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遺言 原発さえなければの小のレビュー・感想・評価

遺言 原発さえなければ(2013年製作の映画)
5.0
原発を廃止したら電力不足になり、生活に支障が生じるのではないのか--。 2011年3月11日の震災で計画停電を経験した自分にとって、電力不足は切実な問題。原発が危険なのはわかるけれど、原発を稼働しないことで電力供給が滞るのであれば、再稼働すべきという意見にも説得力を感じてしまう。

しかし、映画『日本と再生 光と風のギガワット作戦』を観て、原発廃止したら電力が不足して生活に支障が生じる、ということに疑問を持ち始めている。この点は慎重に判断する必要があるので、自分の結論はまだでていないのだけれど。

原発に関することについて頭の中はこの程度の状態ながらも、3.11の記憶を風化させないために、2014年3月に劇場初公開となった本作を、ポレポレ東中野で鑑賞した。

震災後、放射能に汚染された福島県飯舘村の酪農家に密着したドキュメンタリー。村人達と信頼関係を築いた監督が、原発事故後の彼らの普段の生活を切り出し、そのまま映し出す。

そこには原発事故に関連する怒り、憤り、悲しみだけでなく、とりとめない話による笑い、新しい命の誕生への喜びなど、自分と同じ、あたりまえの人々の姿が描かれる。

だからこそ彼らの姿を自分の身に置き換えて、激しく共感する。村人と酒を酌み交わしながら、自らの無力さを泣いて詫びる監督を見て、どうしようもなく悲しくなってくる。

当時、テレビで大々的に取り上げられた「原発さえなければ」の遺言。今では忘れ去られてしまったかのようだけれど、この気持ちがホントウであることは決して揺らがない。この気持ちに比べたら、多少の不自由、不便はどれほどのことだろう。

飼育していた乳牛が、もし地震による牛舎の倒壊で死んだのなら、もし津波にのまれ死んだのなら、諦めがついたのかもしれない。また頑張ろうと思えたかもしれない。

しかし、放射能汚染によって牛乳が飲めなくなったからという人間側の勝手な都合で、搾乳しては捨て、ついには手塩にかけて育てた乳牛を自らの決断で殺処分する。そして仕事も、住む場所も失ってしまう。

何故、自分達がこんな目に。この怒りはどこにぶつければよいのだろうか。運命を呪うしかないのだろうか。「原発さえなければ」と思うことは自分勝手で、我がままなことなのだろうか。絶望し、生きる気力を失ってしまうことは、弱く、情けないことなのだろうか。

遺言を残して亡くなった相馬市の酪農家の菅野重清さんは、借金をして新しい堆肥小屋を建てたばかりなのに、酪農ができなくなった。奥さんと2人の子どもが奥さんの故郷フィリピンに避難し、一人孤独に苦しまなければならなかった。

村の最高齢、102歳の大久保文雄さんは、計画的避難が決まった翌日、迷惑をかけたくないとばかりに「俺は長く生きすぎた」と言い残し自殺した。渡邉はま子さんは、避難先の福島市から一時帰宅した時に、もう避難所には戻りたくないと、自ら灯油をかぶり、焼身自殺した。

彼らは例外なのだろうか。彼らを自分の身に置き換えて考えることは、行き過ぎなのだろうか。

時間は公平で平等だ。悲しい記憶を忘れさせてくれるけど、忘れてはならないことも忘れさせてしまう。だから、節目、節目に思い出さなくてはならない。震災の起こった3月11日、原発関連のニュースを見た日--。

原発事故がもたらしたものを良く思い出したうえで、原発再稼働の是非を判断する。時間による記憶の風化は避けられないのだから、それこそがフェアで、冷静で、合理的な態度ではないだろうか。
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