茶一郎

砂漠の流れ者の茶一郎のレビュー・感想・評価

砂漠の流れ者(1970年製作の映画)
4.3
 西部開拓時代も末期、主人公ケーブル・ホーグは、仲間2人に砂漠の真ん中で裏切られ、水と馬を奪われてしまいます。復讐心を燃やしながら砂漠を漂流していると、偶然、そこに水源が現れ……【あらすじ】

 「砂漠では金より水の方が重要」今作『砂漠の流れ者』は、主人公ケーブルが水源に駅馬車の中継駅を作る過程で、出会った人々と友情・愛情を育む作品。意外にもサム・ペキンパー監督が、その鮮烈な暴力描写をもって勧善懲悪の西部劇に終止符を打ったとされる『ワイルドバンチ』の次に撮った西部劇が、この「水」を資本として荒野でのし上がる「水ビジネス」成り上がりコメディだったという訳であります。

 復讐劇をベースに、全編ノホホンとした雰囲気を醸し出しながら、「西部劇を終わらせた男」=サム・ペキンパー監督はその通り名に恥じぬよう、明確に西部劇の終焉を描いていました。
 まず、主人公ケーブルが水源を発見するまでを、スプリット・スクリーンと早送りで見せるなどペキンパーはあからさまな虚仮威し演出で見せ、今作を古き良き西部劇とは思えない軽妙なルックにしてしまっている。加えて同監督作『昼下がりの決斗』から一貫して「フロンティア以後」を感じさせ、今作に極まったのは、街の施設と確立されている規則・ルールの描写。ケーブルがいざ中継駅を作るとなると登記町、駅馬車の事務所、銀行……と、書類の申請に追われてしまう、こういった描写を丁寧に挿入し、荒野がもう西部劇の頃の無法地帯などとは程遠い場所になったことを感じさせます。
 何よりも物語ラスト、西部劇を象徴する駅馬車「馬」に代わる新しい時代を象徴する乗り物と、最後の荒野の男であるケーブル・ホーグとの衝突は、文字通りの「西部劇の終焉」でした。

 ペキンパー作品では常に、自分の居場所を無くした男の最後の逃避行が描かれてきました。今作も、荒野にしか居場所を見出せない男ケーブルの死に様を映します。逃避行の相手が社会的に抑圧されている女性(専ら、踊り子・娼婦であることが多い)であるということも、『荒野のガンマン』、『ガルシアの首』、ペキンパー作品に一貫した要素でした。
 
 「ペキンパーは西部劇という古いボトルに新しい酒を注いだが、その後そのボトルを粉々に吹き飛ばした」と言われるサム・ペキンパー監督ですが、前作『ワイルド・バンチ』で「酒をを注いだ西部劇という新しいボトルを粉々に吹き飛ばした」とするならば、今作『砂漠の流れ者』は、吹き飛んだボトルの破片を奇麗に掃除するもの。ペキンパーのフィルモグラフィは西部劇の終わりと重なります。
茶一郎

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