私はヤングを通り過ぎたアダルトな人間だ。そんな私にとっては、とても意地悪な映画だ(笑)でも、面白い。ノア・バームバック監督、あなた性格悪いでしょう。きっとね。
ベン・スティラー扮する8年近く作品を撮れていないドキュメンタリー映画作家の夫と、ナオミ・ワッツ扮する父を名監督に持つ妻。そのマンネリ化した40代夫婦の前に、刺激もインスピレーションも停滞した彼らの前に現れた若いアーティストカップルのアダム・ドライバーとアマンダ・セイフライド。特に、この作品のアダム・ドライバーは絶妙に素晴らしい。こういう若手クリエイターいそう!というツボを押さえている。この2人とつるみ、若返ったと勘違いしたかのように、ウキウキしている彼らがどことなく、というか、思い切り痛々しい(笑)特に、ナオミ・ワッツのへたくそノリノリヒップホップは爆笑!
そんなアラフォー夫婦の、もがきが痛々しくも、笑いつつ、でも段々と身につまされて、笑えなくなってくる。時にグサっとくる。あれ、これって誰かに似ていないだろうか?
そうか、もう、あの頃には、戻れないんだ。
はい、わたくし、もう、アダルトです。
今日、表参道で、ヨガしました。
家に帰って、ふと、スタジオのInstagramに、どこかで見かけたアラフォーの男が映っていました。誰?
ワタシでした、、、笑
映画界には、年齢、止まっている人、沢山います。
77歳の大御所撮影監督が怒鳴り散らしていました。
怒られていたのは、55歳の現場プロデューサーでした。
まるで、20代新人のように、しゅんとしていました。
他の業界だったら、部長さんくらいかな?
でも、現場で歯を食いしばっているあの方、格好悪いと思いません。
その後、30歳年下との助監督と、対等にマジで意見を闘わせてるその姿、年齢差なんて感じません。
それは美しいのか、心揺さぶるのか、愛はあるのか。それだけ。
年齢を突き破って生きている人、年齢に縛られている人。
人目を気にする人、息苦しい人、アラサー、アラフォー、アラフィフ、
枠組み、固定観念、世代論、ああ、つまらない。
映画の話に戻ります 笑
世代を描いた映画のようにも見えるけど、純粋主義者も成功主義者も、その人の持った性格であり、それは100年前も変わらないだろうと思う。それを一括りにして、「私たちの頃は」とか「今の若い奴らは」とか世代に分けて言っているのは、あまりに紋きりでつまらないことと思う。ぐるりぐるりと世代を超えて繰り返している、NewGenerationへの嫉妬と思考停止の言い訳に過ぎない。
今、20歳の人。今、40歳の人。40年経ったら、60歳の人、80歳の人になるだけ。今10代の人も、50代。そんな変わりある?
そこで、私の好きなサムエル・ウルマンの「青春」という詩を記します。
青春とは人生のある期間ではなく心の持ち方をいう。
バラの面差し、くれないの唇、しなやかな手足ではなく、たくましい意志、ゆたかな想像力、もえる情熱をさす。
青春とは人生の深い泉の清新さをいう。
青春とは臆病さを退ける勇気、やすきにつく気持ちを振り捨てる冒険心を意味する。
ときには、20歳の青年よりも60歳の人に青春がある。
年を重ねただけで人は老いない。
理想を失うとき はじめて老いる。
歳月は皮膚にしわを増すが、熱情を失えば心はしぼむ。苦悩、恐怖、失望により気力は地にはい精神は芥(あくた)になる。
60歳であろうと16歳であろうと人の胸には驚異にひかれる心、おさな児のような未知への探求心、人生への興味の歓喜がある。君にも我にも見えざる駅逓(えきてい)が心にある。
人から神から美、希望、よろこび、勇気、力の霊感を受ける限り君は若い。霊感が絶え、精神が皮肉の雪におおわれ悲嘆の氷にとざされるとき20歳だろうと人は老いる。頭を高く上げ希望の波をとらえるかぎり、80歳であろうと人は青春の中にいる。
詩 終わり
世の中には、ウディ・アレンという80近くになって、絶世の美女を自在に動かし、この作品以上に、ウィットと毒をもった鋭い感受性に溢れた映画を作る人がいる。
年齢を理由に言い訳をすることは、自分の人生を余計につまらなくするだけ。もういいかげん、年齢を超越して、人生を楽しもう。