【デートで観た私、恋は盲目】
※本レビューはnote創作大賞2025提出記事の素描です。
【上映時間3時間以上】超長尺映画100本を代わりに観る《第0章:まえがき》▼
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「悪に抗わないとはどんな意味だと?」妻二ハルは、小説にムカつく男を投影させたと自慢げに語る夫アイドゥンはに対して問いかける。狼狽しつつも「悪と定義される出来事に対し倫理的枠組みにおいて無関心でいること」と答える彼に対し安易だと評価する。アイドゥンははインテリっぽく言葉を紡いでいくのだが、手頃な理論で丸め込み少年が夫の車に投石した本質と向かい合えていない様を嘲笑う。篤志家である二ハルは思想家が本気で大きな問題と向き合えば、些細な関心事は解決すると考えているが、彼女の助言を見下し、俳優になれなかった人生、日々の鬱憤を小説に呪詛のように書き連ね、それを自慢げに語る様に幻滅している。映画はひたすら苦しむことから逃げ自分を誤魔化し、行き場のない自己の中で醸造された理論を二ハルに「教える」ことでアイデンティティを保っているマンスプレイニング仕草をチクチクと突くのである。『雪の轍』は第67回カンヌ国際映画祭にてパルム・ドールを受賞した。脚本賞が近いような気もしたが、この時の脚本賞がアンドレイ・ズビャギンツェフ『裁かれるは善人のみ』であったことを考えると順当な栄冠だったといえよう。
余談だが筆者はフランス留学中、意中の女性とデートで本作を観に行ったのだが浅墓であったのはいうまでもない。恋は盲目、『雪の轍』の本質を掴んでもいないのに観た後、この映画の解説をしていたのである。再観して頭を抱えたのであった。