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雪の轍のemilyのレビュー・感想・評価

雪の轍(2014年製作の映画)
4.5
カッパドキアを舞台に、洞窟ホテルを経営する元舞台俳優のアイドゥンは、若い妻ニハルと妹ネジラと一緒に暮らしているが、関係はぎくしゃくしている。果てのない口論が続き、お互いのエゴが交差する。家賃を払わない聖職者一家が悩みの種であり、徐々にその矛先も彼に向いてきて・・

 冒頭からその風景美にくぎ付けになる。カッパドキアの幻想的で開放的な淀んだものがない清らかで、いびつな岩や石が立ち並び、石でできた家や洞窟ホテルの美しさに魅了される。しかし本作はそんな風景美と対極のところにある、狭い世界で繰り広げられる人間の本質に迫る、3時間16分に及ぶ会話劇主体のヒューマンドラマである。

 歯車が狂う瞬間、家賃を滞納している家族の子供が車に石を投げてきたのが引き金であろう。父親は理由を聞くことなく子供を平手打ちする。両者の言い分を聞かされ、どちらが言ってる事も間違っていないし、どちらが悪いとは言えない。ほんの少しの譲り合いで折り合いをつけれればよいのだが、まずは自己防衛本能が一番に出てしまい、エゴとエゴのぶつかり合いになる。口論に終わりは見えず、攻めていたはずの自分が責めたてられていることに気が付く。室内の閉鎖的な空間の中で、オレンジの室内灯が、人間の内側の黒い部分をしっかり一直線に照らすように、建て前と本音、言葉のが凶器になり自分を守る武器となる。自分の思考を過信し、無意識の内に、言葉の節々に棘がこぼれてしまうのだ。相手にとっては、その棘だけが刺さり、他は全く見えなくなる。

 普遍的な会話劇の節々から見える人間の本質の滑稽さが、見事なまでに一ミリもずれることなく重なり合い、エンドレスなまでに畳み掛けられる会話の無意味さと、言葉なくとも重なりあう視線が語る本質の皮肉が人生そのものと交差するようだ。会話劇は哲学的で、人間性を問う物が多く、答が一つではないからこそ、口論は枝分かれしていくのだ。口論の閉鎖感と風景の壮大さの対比が見事に引っ張っていくが、それは対比というよりは、人間の心の豊かさの裏返しのように思える。

 彼らの会話の中に共感を覚える。誰かが悪い訳ではない。少しずつの譲り合いであり、相手を思いやる気持ちの欠如である。善と悪はいつでも背中合わせであるが、善が悪に転んだことに自分自身で気が付かない限りは人は赦しを申し入れることはない。うわべや偽善の仮面を会話の絶妙な構築によりはがしていく。真っ裸にされていく。それでも自分の罪を認めることはできる、他人のせいにして自分を守るのだ。誰かを愛するということは赦すことである。それは自分自身の罪を認め、それを赦すことから始まる。自分を知り認めることができない限りは、誰かを愛することの意味さえ知ることはできないのだろう。

 気が付いたら閉鎖的な空間で繰り広げられていた会話劇が見事に深く広がりをもたらし、風景美と溶け合うのだ。そのラストで見せる男の声は、観客の心とも溶け合う。3時間以上同じ空間で味わってきた閉鎖的な重石が一気にとれ、自分の不甲斐なさに素直に向き合うことができるのだ。彼を見て、自分をみる。本作は自分自身と向き合うことを要する。そうして大きな物をラストに残してくれるのだ。人間は弱く滑稽で一人では生きていけない生き物である。自由になれと縄を離されても、誰かとつながることを求めるだろう。それを認めた時、人は自分を赦し、周りを赦すことができる。
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