ニューランド

ソニはご機嫌ななめのニューランドのレビュー・感想・評価

ソニはご機嫌ななめ(2013年製作の映画)
4.1
20世紀末か、レンタルビデオで観て以来、いつしかキム·ギドクを抜いて私にとっての韓国映画不動の現·エースで四番となったホン·サンス(21世紀が始まった年にポン·ジュノも紹介され鮮やかだったが、所詮スピルバーグ·ノーランのクラスと軽く見てきた~この2人の米人気監督が劣る存在というのではなく味わうには淡白と云うに過ぎない~カミンスキーのカメラの天才を除き)、チンケな素人まがいの小品ばかりなのに、20本以上は劇場に足を運ばざるを得ない·躊躇させない、手答えを感じ続けた。その中、『豚が井戸~』『映画館~』『クレア~』と並び、レンタルVHSかDVDでしか観たことがなかったのが本作。近年のホン作品中では、味わいが硬めと言うこともあり、劇場では観る·見直す気が起こらなかった。実際、この作家の中でも最も古典的な、呼応·組立·緊密の構成·タッチを誇っていて、完璧に近い強度を、少しよそよそしく持っている(『次の朝~』と双璧?)。その分少し息苦しくて、だらしない人物への共感·愛おしみが、弱冠薄れる。しかし、描写の簡潔·共鳴を恐るべき次元で実現している、強さは凄い。
「行方不明」「連絡無し」「本当に久し振り」「(それについては大事ゆえ考えて)また今度」「内向的で人とのぶつかり合いが望まれる」「(新たに)勉強をし直す等との言い訳に逃げず、トコトンやり抜く事。そうしなければ本当の自分は分からないまま」「(性超えて)本当に好きでカワイイと」それらの言葉が相手·組合せ·場を変えて微妙にニュアンスを変えて繰り返され、響きあう、店の看板たちすら。人混みや世事への嫌悪·避けの、重なりがつくった内面の空洞·冷たさが反動としての、激しく強い希求·呼び込みに変じ、心の内の孤独と変に引き合い、それは対してる相手へも伝染し合う。大学の映画学科の、アメリカの大学院行きを考え久し振りに出てきた20代半ばの女学生に係わり色々予知牽制し合う、3人の年長の映画監督経験者~院生·社会人·教授。4人は互いに知己で、複雑な関係と解消·疎遠化も眠ってて、見かけて反射的·発作的に呼んだり近づきもするが、自制できない甘えも含んだ、今更一方には鬱陶しい、しかし思い当たりもしない訳でもないものが沸騰する。しかも、各組合せで別の組合せでの他者からの言葉が自分のものとして蘇ってきて、またそれがそっくり通用するのだ。それくらい4人には共犯関係が通じてるのか、また普遍の側に投げて真の独立性が欠けているのか(「女はより現実的·客観的だから、それに、男は従え」「君は、僕の映画の生涯通してのミューズ」「今度は誉め過ぎ? いや、どうせ推薦状書くのは30分の事だから、大したことでは」「名は云えんが、生涯の女に巡り合えたかも」等の言葉が、安易な了解事項として、ある上に)。ラストは例によって、4人が偶然というより、深層の共通する誘因で、一堂に会するか、すり抜けるかの、神の操りとなるが、何時に増して引き締まってはいる。
空にカメラが時おり向けられるか、移ってゆき、陽の光の存在を常に感じさせ、影や暗みのニュアンスや強度もいつになくリアリスティックだ。パンや、とりわけズームも、段階を踏んで同方向等に繰り返される事はあっても、安易·ルース·気紛れな緩み·解放感へ向かう濫用はない。トゥ·ショットの長回し(固定め)や、歩きや位置に付いての(半ば)どんでんや、俯瞰め視界等も、厳密な目的を備えてるような確度がある、堅い。どちらかといえば、この話の前段的な『教授と~』の持つ八方破れの構成·力の方が好ましいが、この作家の力量·巾を証明してる事は変わりない。前後作と似て同じ風に見えて内実·核はまるで異質で相互に刺激し合ってる、小津と同じだ。
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