朱音

キョンシー/リゴル・モルティス 死後硬直の朱音のネタバレレビュー・内容・結末

2.4

このレビューはネタバレを含みます

いわゆるリブートと思いきや全くそうではなかった。例えるなら西部劇、もといクリント・イーストウッドにおける「許されざる者」や「グラン・トリノ」のような性質をもった作品で、かつてサモ・ハン・キンポー製作の「霊幻道士」の大ヒットにより一大ムーブメントとなったキョンシー、国内外での人気から無数の亜流作品を生みだし、今日に至っては衰退の一途を辿ってきた「キョンシー映画」に対しての鎮魂歌というか、最後の夢というのをやりたかった作品なのだろう。それが上手く出来ているかは別として、そういう意匠があるのに違いはない。
従って本作はキョンシー映画に対するリテラシーがあればこそ、それなりには楽しめる要素もある作品、だとは思う。

キャストには霊幻道士シリーズにおなじみの顔ぶれを揃えており、往年のファンにとってはさぞ感涙ものであったろう。
主人公を演じるチン・シュウホウはシリーズ1作目に弟子役として出演していた俳優で、本作の役どころはなんと自身と同名の、それも落ちぶれたかつてのスター俳優という、現実をフィードバックさせたような設定になっている。
同様に本作には2人の対照的な道士が登場するのだが、彼らもまたシリーズで道士役を演じた俳優であり、それぞれが道士としての在り方やキョンシーという存在と対峙した過去にとらわれた人物として描かれるのも興味深い。

この映画のヴィジュアル面はとても素晴らしいと感じた。舞台となるマンションは生活感はおろか生気すら感じられない。
生の喪失に囚われた人々が集まって出来ている様な閉鎖的空間は、それ自体がただ事じゃないという予感を観る者に与える。
様々な怪奇現象や作中に登場するお化け、つまりキョンシーと双子の幽霊の、その禍々しい造形やトリッキーな動きなど、ちゃんと近代の映画に相応しい表現のアップデートが施されていて、これは理屈抜きに見応えがある。
旧シリーズとは対照的にコミカルな要素を排し、血生臭いバイオレンスを際立たせたのは悪くないが、道士たちの繰り出す華麗な技や術式の数々、などの描写はどうしてもシリアスに見るには滑稽で違和感がある。これはそういったニュアンスをいち早く嗅ぎ取り、コミカルに転化させたオリジナル製作者たちの才覚をこそ褒めるべきだろう。


この映画の最も重要な問題として、困ったことに本作はストーリーテリングに関しては非常に宜しくない。はっきり言ってめちゃくちゃだと思う。
何というか、会話がいまいち成立していないというのがニュアンスとしてしっくりくる。ひいてはそれが物語全体にまで及び、やがては物語自体の成立をすら危ういものにしている。
ひとつのシークエンスがあるとする、一連の流れがあって、それが何らかの形でひと段落したところでそのシークエンスは閉じられ、そして次のシークエンスへと移ってゆく。この連続こそが映像における物語の構造であるが、表現によってはそこに分断や省略を意図的に入れる事もあるだろう。端的でスマートな表現とはそういう部分にセンスを感じられるものだ。
本作におけるそれは、そのシークエンス自体に寸足らずな問題や欠落を孕んだまま、場面は次々にと移り変わり、その度に新たな疑問を増加し続けながら進行してゆくのだ。とにかく鑑賞中、頭の中には「?」が常に点灯し続け、それが飽和してゆくに従ってだんだんとどうでも良くなってくる。
え?いま何が起こったの?え?いまこの人死んだの?最終決戦は結局なんで勝てたの?という次第である。
双子の幽霊はキョンシー以上のインパクトのある存在感だが、それ自体が問題だし、物語上の関連性、必然性が感じられないように思う。死霊に憑りつかれたマンションと否応なく「死」に引き寄せられる住人たち。失われたキョンシーの復活とかつての道士たちとの顛末。これらは別個の物語だし、どっちかに絞るべきだったと思う。

結末が暗示した通り本作がいわゆる夢オチであるならば、或いは意図的に支離滅裂感や不合理感を狙ってやったという事もあるのかもしれないが、だとしても映画という媒体に再構築するにあたって、テーマ性や象徴的意味性と剥離したような不合理をそのままごろっと出してくるのはもはや表現とは呼べない。

逆に良かったのはマンションの住人、パウ・ヘイチン演じる老女ムイが死んだ亭主の周りをぐるぐると歩き回りながら、滔々と涙ながらに話しかけるシーン、いつも文句ばかり言う亭主が何も言わないので自分が代わりに文句を言う、この夫婦ならではの絆が端的に感じられるし、それが失われてしまった哀しみがヘイチンの熱演と相俟ってグッと伝わってくる。


元のタイトルは「リゴル・モルティス/死後硬直」
朱音

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