サマセット7

バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)のサマセット7のレビュー・感想・評価

4.1
監督は「バベル」「レヴァナント:蘇えりし者」のアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ。
主演は「バットマン」「スポットライト世紀のスクープ」のマイケル・キートン。

[あらすじ]
20年以上前にスーパーヒーロー映画「バードマン」の主役を務め、スター俳優となったリーガン(マイケル・キートン)。
その後ヒット作に恵まれず、世間からは「バードマンを演じた人」と認知されている。家庭は崩壊。1人になるとバードマンの声で現状を嘲る幻聴が聞こえる始末。
そんな彼は60代にして、初めて演劇の演出、主演、脚色を手掛け、ブロードウェイの舞台で再起を期す!!!
疎遠になっていた息女のサム(エマ・ストーン)との関係復活を目指し劇のアシスタントに起用して、何もかも上手くいくはずだった。
しかし、リハーサル中の共演者のアクシデントにより、開演2日前に、才能はあるが自己中心的な役者マイク(エドワード・ノートン)が代役として参加することになり、俄に暗雲が立ち込める…。

[情報]
2015年の第87回アカデミー賞作品賞を受賞したことで、広く知られる作品。
現時点で2度のアカデミー賞監督賞受賞を誇る、押しも押されぬ名匠、メキシコ人監督アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥが、今作で初めて同賞を獲得した。

舞台初演に向けた数日間の、元ハリウッドスターを役者を中心としたドタバタ劇を描く。

ジャンルは、ブラック・コメディ。
演劇界を舞台にした職業ものの群像劇、親子間のドラマ、スーパーヒーロー映画の風刺などの要素を含む。

今作には撮影、キャスティング、脚本、音楽など、あらゆる要素に挑戦的かつ高度な技巧が凝らされている。

撮影監督はトゥモローワールド、ゼログラビティ、レヴェナント、ツリー・オブ・ライフなどの仕事で知られるメキシコ出身のエマニュエル・ルベツキ。
今作は、最終盤の一回のカット割を除いて、ほぼ全編がワンカット撮影に見えるように撮影されている。
実際には長回しのカットを継ぎ目なくCGで繋いでいるようだが、それにしても凄まじい仕事だ。
なお同様にワンカットにこだわった作品には、ヒッチコックのロープやサム・メンデスの1917などがあり、まるで観客が実際に体験しているかのような没入感に特徴があるとされる。

今作の主人公リーガンはかつて「バードマン」の役を演じて、今やその印象だけで語られるようになってしまった60代の役者。
演じるマイケル・キートンもまた、1989年公開の「バットマン」、1992年の「バットマンリターンズ」にてバットマン役を演じ、その後はヒット作に恵まれなかった今作出演時60代の俳優であり、役者の人生が役にオーバーラップするキャスティングになっている。
こうしたキャスティングの作品には、サンセット大通り、ロッキー、レスラーなどがある。

今作の音楽は、ほぼ全てがメキシコ系のアントニオ・サンチェスの演奏、作曲からなるジャズ・ドラムに依っている。

今作の劇中劇は、レイモンド・カーヴァーの1981年発表の短編小説「愛について語るときに我々の語ること」を演劇化させたもの、という設定である。
同小説は、2組の夫婦が愛にまつわるエピソードについて話す、という内容の、アメリカでカルト的人気のある文芸作品。
イリャニトゥ監督のインタビューによると、「この小説は、初めて脚本に挑戦する者が、舞台化しようとする題材としては、最悪のものだ」とのこと。

今作の予告映像には、ヒーローとしてのバードマンが空に浮かぶ姿が印象的に映る。
その結果、タイトルも含めて、スーパーヒーロー映画の亜種なのか、くらいの印象で見始めると、ひたすら壮年の役者のドタバタ劇が続き、いつまで経ってもバードマンは声しか出てこないので、「思ったのと違う」と失望する可能性があるので注意を要する。

今作及び今作での役者の演技は、批評家から絶賛を集めている。
一方、一般層の好みは分かれているようである。
アカデミー賞作品賞、監督賞、脚本賞、撮影賞を受賞した他、多数の賞に輝いている。
1800万ドル程度の製作費だが、評判の高さが後押しし、1億ドルを超える興収を叩き出した。

[見どころ]
マイケル・キートンとエドワード・ノートンの素晴らしい演技合戦!!!
虚実が入り乱れる、幻惑的な演出!
幻惑性を助長するワンカット映像!!
解釈のしがいのある、重層的な脚本が、思考を促す!!

[感想]
とても楽しんで観た。

いきなり冒頭から、楽屋でパンツ一丁のマイケル・キートンが文字通り浮揚している場面からスタート。
なんだこれは、と思わせる。

その後も独特の演出、描写の連続。
時間と空間を、ワンカットのままで跳躍する。
主人公の心象に応じて、ジャズドラムが鳴り響く。
観ていくうちに、主人公リーガンの過去と現在、その人となりが、徐々に明らかになっていく。

今作の一つの軸は、栄光の過去故に貼られてしまったレッテルから、いかに自由になるか、という渇望である。
また依然として、リーガンは、過去のような栄光を取り戻したいとも願っている。
マイケル・キートンのキャリアを重ねるとより真に迫る。
彼を捕らえる過去の栄光の象徴が、バードマンの声、と見ることができる。

一方、リーガンはもはや一昔前の「かつてスターだった者」であり、現実として、時代の流れについて行くことができない。
新たな時代を象徴するのが、エドワード・ノートン演じるマイクだ。
彼の生意気でエゴイスティックで、しかし、誰が観ても明らかな「本物」の演技!!!!
リーガンは常にマイクの存在に苛立っている。
この「時代の流れ」との格闘が、もう一つの軸になる。

さらに、愛、特に息女からの愛情、もまた一つの軸となる。
息女サムとリーガンの会話は、それぞれ今作の重要な分岐点となる。
サムを演じるエマ・ストーンの、時として鬼気迫る演技も印象的だ。
繰り返される劇中劇の愛に関するセリフは、シーンによって、全く異なるニュアンスを帯びる。

これらの複数の物語軸は絡み合い、リーガンの精神は混迷の度合いを増していく。
マイケル・キートンの演技は、終始圧巻だ。
現出するクライマックスで、現実と幻覚の境界線は喪失する。
しかし、どこか、陽気な解放感が漂う。

ドタバタ喜劇の中に、ハッとするセリフがあり、シリアスな場面の直後に、苦笑するしかない下ネタが現れる。
イリャニトゥの演出、脚本は観客を引き摺り回す。

リーガン以外のキャラクターの描写も、それぞれ味わい深い。
マイクとサムの会話により炙り出される、マイクの抱える欠落。
2人の、愛と夢の両方を追う女性たちの至る顛末。
そして、「批評」に関する印象的なやりとり。

ラスト。
偏執的に続いたワンカットが、終に割られたその先に、描かれる情景は、虚か実か。

なるほど、これは作品賞に相応しい。
ある意味で、映画の一つの完成形かも知れない。
好きかと言われると、考え込むことになる。
この全編偏屈なオヤジがドタバタしながら文句を言っている映画を、エドワード・ノートンが真顔で局部を盛り上がらせている映画を、私は好きだろうか?
この致命的に笑えないコメディを?

[テーマ考]
今作のテーマを一つに絞るのは難しい。

特にラストの解釈によって、受け取るべきテーマも変わってくるように思える。

ロッキー的な、人生には、いつになっても取り戻すチャンスがある!!
行動しないと結果は出ない!!
お父さん!もう一回、ガンバロー!!!
という、ある意味で能天気なテーマを読み取ることも可能かもしれない。

他方で、よりシニカルなテーマを受け取ることも可能だ。
すなわち、過去の栄光も、現在の賞賛も、親子の愛情も、全部無意味だ。
時代は常に動き、人は己れのために自己満足の快楽を見出すことにしか興味がない。
ショービジネスは、そんな移ろい行く、刹那的な欲望の集合体でしかない。
やがて、全ては泡沫として弾ける、という、身も蓋もないテーマ。

2つのテーマは、ショービジネスの最前線に身を置くイニャリトゥの抱える、願望と諦観のようにも思える。

よりシンプルに、舞台でしか本当の自分になれない、という役者の業と、そんな生き方の鮮烈さを描いた作品、とも言えるだろう。
リーガンとマイクは、本質的には同類なのだ。

[まとめ]
全編ワンカット撮影、俳優の実人生がオーバーラップするキャスティングなど全てに精緻な工夫が凝らされた、笑えないブラック・コメディの傑作。

今作で華麗に復活を遂げたマイケル・キートンだが、アカデミー賞主演男優賞には選ばれず(「博士と彼女のセオリー」のエディ・レッドメインが受賞)。
3年後には「スパイダーマン/ホームカミング」で、バルチャー役(また鳥人間!!)でヒーロー映画に復帰。
今年になって、「ザ・フラッシュ」と「バットガール」の2作で、バットマン役復帰だとか。
今作と対比すると、面白すぎやしないかい?