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きみはいい子のharuのレビュー・感想・評価

きみはいい子(2014年製作の映画)
4.7
この監督、本当に胸に刺さる映画をぶつけてくる。
しかし鑑賞中のヒリヒリしている感情が、鑑賞後には浄化されていることに気づく。
まるで丁寧な治療のよう。

『そこのみにて光り輝く』にも共通するが、自分だけでは思うように解決できない痛みに寄り添う人が現れる。
どんな状況でも、まわりを見渡すと手を差し伸べてくれる人が必ずいる。
そしてただ待つだけでは無く、どう一緒に悩んでくれる人なのかを自分から知りに行く。この一歩がかなり大きいと思った。

優しさの伝播を何気なく言うシーンは見事だったし、さらに「枯れ木に花を咲かせましょう」を被せてきたりで、自分の心の持ちようで変えることができるという強いメッセージを感じた。

一方、大人のダメさも描かれていて、これもまたズサズサと胸に突き刺さる。
(今これをバスの中で書いているが、なんの罪悪感も無く大声で電話をしている婆さんがいて、映画とは特に関係ないが本当に大人が嫌になる)。
尾野真千子演じる母親は痛みを知っていて、娘への行為に罪悪感も感じていたが、生徒のあの親(父親と呼ばされてるあの人)にはそんな感情無いんだろうなと思った。
あの(仮称)父親は変わることができたのか…根は深い

それと池脇千鶴!
なんかハツラツとしすぎでどこか鬱陶しい〜とか思ってたところのあの救済!!あなたは女神さまですか……ああいう人が周りにいてくれるといいだろうなぁ。
というか自分がそうなれっていう話か。

喜多道枝が、数週間しか咲いてない、はかない桜に過敏に反応している点はかなり重要。
それに気づき感じることができるかを投げかている。
過敏繋がりで、富田靖子の息子に視点が行く。
障害者だが、観客の誰が観ても間違いなく「いい子」と思えるだろう。それに気づく喜多道枝。
この構図がとても美しい。
まさに親が子供に向けべき眼差しの象徴がこの三人からは感じられた。

映画の構成について
高良健吾と尾野真千子の接点が全くないことに鑑賞後しばらくしてから気づいた。
それぞれ置かれている状況、立場は違うが、根源的な問題は一緒だったから気づかなかったのかもしれない。
映画の時間軸では、先に高良健吾が抱きしめられ、しばらくしてから尾野真千子が抱きしめられるシーンが来る。このシーン間の時間が、問題を解決するまでのもどかしさと被り、その後あの抱きしめシーンがくるので強いカタルシスを感じる。
カメラが追っている対象が移り変わっても問題は共通している点は説得力があった。
あと音楽のかかるタイミング絶妙‼︎

ポスターの絵とキャッチコピーだけでも見て欲しい。
それでも何も感じない人は映画を観て欲しい。
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