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新選組始末記のotomisanのレビュー・感想・評価

新選組始末記(1963年製作の映画)
4.2
 雷蔵の身ぎれいさが不似合いな新選組、どこに配すかと思えば密偵山崎。もはや鞍馬天狗ではないか。
 実際、医家に養われ医の心得があったそうな山崎が幕末の時局に接して侍を志すとしても、度量悠然たる近藤と差し向わなければ新選組に志願する事は無かったろう。それをメガネ違いというなら、身を勤皇党に投じれば廉潔で居られたろうか?土佐の人斬りらが仕掛けるネガティブキャンペーンを目の当たりにすれば答えは明らか。古典軍記物が伝えない軍事の悪逆さにあちらもこちらも無いとは嫌でも気が付く。
 こんな山崎が白眼を向ける天知歳三の策士ぶりが真率にして無類。討った鴨への弔辞を空涙で飾る城近藤に、これまたワニの貰い泣きか感涙空涙で煽り立てる様子は策に溺れそうな頓智の珍景だ。まあこれなら、京師から東国、函館までしぶとく転戦続けるに器量十分と納得の感がある。そして、弱卒無用の隊にあって蟹の一穴、なまじ情理に厚いばかりに志操の揺らぎを疑われる山崎を、山崎からの不信を刎ね返すように怪しむ。
 こんな正反対の雷蔵・天知を抱擁する城近藤の大懐を天知歳三が自分の軸足の座と心得てる事が島原の一室で分かる。何をしようとどっちを向こうと近藤を立て、そのもとから離れない歳三の長い付き合いの末が、近藤大事に二心無しを感じさせ、まるで三国志のようにいい芝居になってる。これだから池田屋襲撃に向かう展開での二人の不一致の険悪さと、終結時の山崎と三人の和解の清々しさが際立つ。
 しかし、暗殺合戦の日々なればこそ、度々割り込む荒事の強烈さも目を引く。冒頭から鴨の河原の晒し者に血脂がのると切れ味が殺がれる刀争の、腕の良くない二人が斬り合う際限なさに始まって、土佐の人斬りの抜討ちで投げ出される口軽の死体、山崎自身も隊に挺身する決意の四人斬り、その報復を受ける志保との逢引きの場、おなじみ升屋責め、中々見事な池田屋事件まで。
 闘場の度に何かの切っ掛けが生まれては何かが潰える。最後、池田屋で雷蔵、隊士の結束に絡みとられ志保を見失い、志保もただただ雷蔵を見送るばかり。最早絵に表れない、物語を置き去り消えゆく雷蔵と事件の名残りの遺骸の間に立って、志保がひとり雷蔵から遠ざかっていくだろう自らへの諦めのような感じが、志保の表情を逃し空ばかりとなった画面が、この話のもうひと方、志保の行く末、希少な女蘭方医としてやがて長崎に修行に赴くのだろうが、遠からぬ雷蔵山崎の死ぬまでとどう臨むのだろう?混沌とした将来を暗示される。
 時局に接し死に急ぐような男たちと医家に生まれ契機と幸運とを得て命を守り癒す仕事に活路を掴む女との対照が、かつてない幕末物語を産んだ。新選組が切開いた話はそれとして、その結果、雷蔵山崎をして志保を諦め、結果、志保の背中を押して新しい時代、大手を振って歩ってくれよと告げるような。なぜか一緒には歩けないのかねと思わせる。ならば、山崎でなければよかったのに。と言ってはお終いなんだが。
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