otomisan

沈黙ーサイレンスーのotomisanのレビュー・感想・評価

沈黙ーサイレンスー(2015年製作の映画)
4.4
 ロドリゴの最期で、棺の中で結ばれた両の手の内にモキチから渡された小さな小さな木彫りの十字架が納まっていた。おそらく、妻女か守り刀と共に入れたのだろう。生前ロドリゴが妻女にそのように指示したのだろうか。
 ロドリゴが信仰を保っていたなら、その証を死の間際に妻女に示したことになる。では、妻女もまた信徒であったのか?幕府からの宛がい扶持で娶った妻が監視の最前線であったとは想像に難くない。その妻女があの木彫りを握らせたのか。
 その外面からは何も気取られる様子のない妻女の振る舞いに、二人の信仰の深く静かな様を想像するべきか、それとも、ロドリゴ末期の打ち明けに一向にたじろがぬ背信ぶりに或る種の謎めきを覚えるべきか。
 いや、後者であっても妻女はロドリゴの生前なにがしかの徴を捉えていたかもしれない。そして今わの際、真実を今生最期に自らに打ち明けてくれたことを感謝したかもしれない。
 いずれにせよ、この妻女もまた息を引き取るとき、いかなる儀礼の下であれ、自ら信じるところを抱懐して逝くのだろう。これもまた隠れ信仰というべき事だろうが、この世の誰一人知らないことだ。

--------------------------------------------------------------------
(追補)
 沈黙ということだが、してみれば神ばかりの事ではない。ロドリゴもまた棄教を装って信仰について沈黙したし、その妻もそれと知りつつ監視役に背いても沈黙を守り、おそらく、自身の信仰についても沈黙を通すのだろう。
 あるいは、為政者たちも民衆の信仰という厄介な問題に対して、事が起こらぬ限り「沈黙」していたかったかもしれない。国が外国勢力によって制圧、転覆される危険が鎖国と教会弾圧で遠のいてしまえば、民政上の問題はむしろ一揆や打ち毀し、おかげ参りブームなんぞの方がよほど現実的だ。幕末に隠れキリシタンが浦上で名乗り出た事件で長崎奉行が信徒らを捕縛せず自ら慰留に当たった件も幕末の事とは言え、幾分そうした、好い加減見過ごしにしたい気分を反映したものとも考えられる。幕政が落ち着き、教会組織の復興の恐れが消え外国勢力との交流が困難となった時期のこと、話中の筑後守らの役柄もそうした事を踏まえた設定によるものと見える。
 しかし、ロドリゴにあの十字像を譲ったモキチや幾度もころんでは舞い戻るキチジローのような者たちは、自殺が許されない以上、死ぬまであるいは殉教するまで天国を請い願って沈黙しなければならない。では、極楽浄土ではいけないのか?それは、寺社の特権的な立場を見ていれば信じるに足りなかったのかもしれない。だが、そんな彼らが教会の本国での富裕と政治力とを知ればどう考えるだろう。しかし、それは知りようもない事で、彼らが知るのは遠路危険を顧みず渡日した宣教師たちの信仰の厚さと彼らが説く神の愛だけである。
 元来、神から愛されると信じ、神を愛するだけでよかった事だろう。追い詰められたにせよ、棄教し教会と切れたロドリゴとその遺志を酌んだ妻もそんな境地に落ち着いたかもしれない。教会だけが人と神とをつなぐ唯一の窓口と教会自身が決めた事がのちに政治的プレイヤーに伸し上がったために大変な軋轢を生む事になる。それが日本では、生きているのが嫌になるような現世を嫌って、恐ろしい死にざまにもめげず殉教する信徒たちのいる一方で、傍目を偽って沈黙する信徒たちや右に左に倒れても愛の一縷が絶えないのかキチジローのような苦悩に生きる者も生む。そうして二百年近くが過ぎてみれば、もうカトリックとは見做せない異様な信仰となってしまうのだそうだが、そうした言葉が批難がましく聞こえるなか、映画の描くところは教会を捨てて信仰を秘める人々の姿が、五島の人々、三左衛門となったロドリゴとその妻と内実内心は大きく様相を異にしながらも「愛」ひとつだけでもつながると云う、なんとも愛しみを感じる話だった。

----
 史実かどうかは気にしないで大丈夫。史実に縛られるような小さな話ではないから。
 ほかにお勧めの映画があるなら、この映画のあとに勧めるのがお勧め。
 キリスト教を理解すること以上にモキチやキチジロー、ロドリゴ、その妻の「愛」をめぐる信仰について、なぜ「愛」なのか、なぜ「神」が焦点となるのか思いを深めるのもいいと思う。ホアキン・フェニックスがイエスだった頃はあれほど単純そうだったのに。
otomisan

otomisan