岡田拓朗

沈黙ーサイレンスーの岡田拓朗のレビュー・感想・評価

沈黙ーサイレンスー(2015年製作の映画)
4.8
非常に濃密な映画でした。

この時代の「キリスト教の信教・信仰」と「日本の鎖国・禁教政策」は、考えれば考えるほど、ジレンマに陥る。
作品を通して、より簡単に答えが出せるものではないな、と実感。

以下が、この映画で率直に感じたこと。
1.神に祈ることにより、弱き者が救いを受けられるという叶うことのない幻想

カースト制度がはびこる江戸時代の日本。
弱き者と強き者が、きっぱりとわかれている「士農工商」。
武士や大名が強い権力を持っていたこの時代。
弱き者には、その弱さから抜けられない現実がそこにはあったんだと思う。

そんなときに救世主のように、キリスト教が布教されていき、神に祈ることで、弱さから抜け出せると信じていた。
でも神は話さない。
神は沈黙のまま、無情にも時だけが過ぎていく・・・
祈りは日本では届かず、革命も起きない。
救いを受けられるというのは、叶うことはないけど、弱き者にはそれを信じて祈ることしかできなかった。
そんな時代だったんだなと。

2.唯一の救いを閉ざす当時の日本、幕府

信教は、団結して広がっていくことで革命を生むこともある。
禁教政策に至る背景は、
・キリスト教が日本を植民地にしようとする動きがわかったから
・キリスト教信者、キリシタン大名が集まって反乱を起こされたら困ると思ったから
の2点と言われている。

強き者が支配しているこの時代。
そのような危険のあるキリスト教信仰に対する取り締まりは日に日に厳しくなり、さらに救いをなくしていく。

でも、士農工商により、弱き者から脱せない信教者は、神に祈ることしかできない。
これこそが社会の不条理で、当時のこの問題に対して、答えが出せない自分なりの理由です。

3.何が正しいのか、大切なこととは何か、強さとは何か

この映画の命題。
まさにこれではないか。

フェレイラ(沢野忠庵)の生き様が観たくなるラストの展開。
祈るだけでは何も変わらない。
日本での不条理な禁教政策の下では、キリスト教は無力で、むしろ弱き者をさらに苦しませるものである。

本当に大切であり、正しいこと。
いかに本質や中身について、深く考えて行動するか。
「○○のため」、を自分本位にしないこと。
それは「沈黙」の中では、棄教・踏み絵の辛さや苦しみに耐え、弱き者を苦しむことから解放することであった。
それこそが、大切であり、正しさであり、強さではないか、と自分は感じました。

4.ジレンマは解消されるのか

冒頭に書いたジレンマに陥ること。
国全体でのカースト制度はなくなって、全員が平等である世の中にはなったので、この時代より弱者が救われないことはない。

ただし、あらゆる組織で未だ強者と弱者が存在し、組織内のルールに苦しんでいる人がたくさんいる。
とはいえ、政府も性悪説に立って、全ての組織を監視することはできない。

ジレンマはどの時代にもつきまとっていて、それが強者と弱者を生み、弱者は現実から逃れるため、信仰や祈りに走る。
このサイクルはどう解消すべきなのか、されるべきなのか。
性善説で世の中が回って欲しい。

話は戻って作品の時代。
この時代の信仰心の強さは無知ゆえか、育ち方ゆえか、覚悟ゆえか。
いずれにしても凄い。
宗教を信教したことのない自分には、この信仰心の強さに対しての理解が難しかった。
それは、現代の様々な事件の背景にある宗教信仰も然り・・・
宗教や祈りには、怖さもつきまとってくる。

キチジローが一番人間らしいのに、異常、もしくは卑怯に見えてくるのが、宗教信者と奉行の世界観。
この映画はキチジローがより深みを出していた。

「なぜ弱きわれらが苦しむのか」
このキャッチが本当に刺さってくるような作品であり、様々な感情が行き来した160分でした。

2017年、早くも自分の中でのベストが出てしまったかもしれない。
(まだまだ序盤ですが・・・)
岡田拓朗

岡田拓朗