お豆さん

沈黙ーサイレンスーのお豆さんのレビュー・感想・評価

沈黙ーサイレンスー(2015年製作の映画)
4.0
マーティン・スコセッシが1988年に原作と出会って以来の念願を実現させたという本作が、28年前ではなく、信仰、人種、セクシャリティの違いによる対立が激化している今という時代に公開されたことは、とても意味があるし、運命的であるとすら思う。人はなぜ信仰を持つのか、人はなぜ対立するのか、人はなぜ希望にすがるのか、人はなぜ…。1600年代の日本を訪れたキリスト教宣教師の目を通じて描かれた本作は、ほとんど禅問答のような独白(=沈黙する神との対話)によって、我々鑑賞者に多くの問いを投げかける。

とうの昔に宗教とは人を救うものではなく対立の元凶でしかないという考えに落ち着いていた私(そして多分、現代の多くの日本人)にとって、宣教師はもとより当時の日本人がなぜ命を投げ出してまで信仰にすがるのか、当初は理解できずにいたが、スコセッシは人々の心情を丁寧に詳らかにしていく。途中、ひとりの少女が「パライソ(天国)には苦役もなく、税金もないのか」と問う場面があるのだが、信仰のために死ぬ(殉教する)ことで現前の苦しみから逃れ、天国に迎えられると信じているのだとすれば、それはそれとして理にかなう。信仰は胸に秘めておいて絵を踏めば良いという、そう簡単な話ではないのだ。と、そこで現代の日本(そして世界)のことを考え、静かに身震いをした。そうした中で、信仰と恐怖と後悔の間で立ち回るキチジローというキャラクターが、ロドリゴ神父の分身あるいは彼の心に呼びかける悪魔的存在とも受け取ることもでき、人間の葛藤を具現化した存在として印象的だった。これは遠藤周作(どうでもいいけど、アメリカのニュースで「エンドゥ」と発音されていたのが妙に気になった)による原作を読まなくてはいけないと思った。

本作が公開される前、バチカン市国にてローマ教皇の前で特別上映があったというが、彼は何を思ったのだろうか。数年前、アルゼンチン出身の教皇フランチェスコが誕生したのは、イスラム教の台頭はもとより、ヨーロッパでの信者離れにより、まだまだ潜在的信者を見込める(=社会的に不安定)中南米に目を向ける政治的決定によるところも多分にあるのだが、そうした状況をプロテスタントの台頭により外に信者を求めた1500年代のカトリック教会の危機的状況に重ねることもできるだろう。そういえば、フランチェスコはイエズス会初の教皇としても話題になったが、16世紀以降、率先して海外での宣教活動を行っていたのは『沈黙』における主人公のようなイエズス会士たちなのだった。時代は回る。ああ、永劫回帰を唱えるニーチェは、神をも否定したのだった。こうして思考は回る。

2017. 10
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