ニャーニャット

沈黙ーサイレンスーのニャーニャットのレビュー・感想・評価

沈黙ーサイレンスー(2015年製作の映画)
4.0
オープニングの熱湯による拷問のシーンは縦の構図でいわゆる映画的で圧巻な絵作りなんだけど、その後は小林正樹か溝口健二かっていうくらいシンプルな構図を積み重ねていく。

靄の中進む舟は『雨月物語』、足元が異常にぬかるんだ村は『山椒大夫』と特に溝口オマージュには抜かりがない。靄の中の舟は個人的にはキューブリックの『恐怖と欲望』なんだけど。足元のぬかるみが感覚的に与える印象とそれが象徴的に意味するものは『山椒大夫』の荘園のそれとまったく一致していて、表層的なオマージュにとどまってないところはさすが。

内容は原作小説を丁寧になぞった感じ。お得意の一人語りで話をずんずん進めるスタイルはこの映画の原作の作りとうまいことマッチしてて、ラストの市民ケーン的アレンジもどちらかというと原作小説の精神をより映画的に拡張して表現した感じ。

[神は沈黙しているのではなく、信者や司祭の側で共に泣いている]っていうこの映画の重要なテーマのひとつも、随所に神の視点(真上からのショット)を散りばめることで絵的に表現している。

原作でロドリゴを諭すフェレイラが言う
「日本人は人間を美化したり拡張したものを神とよぶ 。人間と同じ存在をもつものを神とよぶ 。だがそれは教会の神ではない 」
という言葉を見る限り、今も日本人の精神性はほとんど変わってないよなぁと。小説が書かれたのは昭和なわけだけど。

この物語は「キリスト教」を棄教することで、より「キリスト」の教えに寄り添うことになる、さらに、その境地に到達するまでを導く者が自分の罪悪感を癒すためにかつての弟子を貶めようとする堕天使であるということが話を複雑にさせる。その堕天使もそんな単純な一面的存在ではなく、おそらくロドリゴを諭す際の言葉に多少の真実もあったものとも思われる。

この話はよくヨブ記との類似性が挙げられてるけど、ヨブ記ってキリストが現れる以前の話で、この『沈黙』は神の沈黙に関する答えをアップデートしているように思う。

なにか深く信仰してる宗教があるわけじゃないけど、「宗教」とは「信仰」とは…といった問いを突きつけられたなんかモヤモヤするお話でした。