きょんちゃみ

沈黙ーサイレンスーのきょんちゃみのレビュー・感想・評価

沈黙ーサイレンスー(2015年製作の映画)
5.0
キリスト教徒は、棄教しないかもしれない。しかしキリストは棄教するだろう。なぜならキリストはキリストであってキリスト教徒ではないから。

この映画、日本描写がとても優れていた。
1580年に大村純忠というキリスト教徒の大名が長崎の土地をイエズス会に寄進するということがあったようだ。これを、日本の土地が西洋に侵略されているというふうに理解した人もいたのかもしれない。

「ペトロ岐部と187殉教者」を調べると、隠れキリシタンの殉教者たちは2008年に「列福」されているようだ。「聖人」にはしないけど「福者」にはするという位置付けなのだろう。

ところで、この映画に音楽は一切ない。すごくいい。自然音が映画音楽になっている。

主人公の二人はポルトガルからきたイエズス会宣教師。それなのに英語を喋っている。出演はアンドリュー・ガーフィールド、アダム・ドライバー、リーアム・ニーソン、窪塚洋介、浅野忠信、塚本信也、イッセイ尾形、小松菜奈など、凄い面々。

絵踏みをするときにいちいちセバスティアン・ロドリゴ神父を見る日本人たちの演出がマジで素晴らしい。みんなキリスト教のためじゃなくてロドリゴ神父のために死んでるんだよね。神の前にまず他者がいなければ神もヘチマもないということだと思う。この映画はそういうことを描いてしまっているように見えた。

フェレイラ神父がいう「日本にはキリスト教は根付かねえ説」の真偽は俺には分かりかねるが、少なくとも、概念的に分節された思考自体は訓練次第で誰にでも身に着くと思う。そのうえで真理とか神とか正義とか、抽象度の高い話も上手く扱えるようになっていくと思う。だから、日本にキリスト教が根付かないとしたらそれは概念を駆使した論理的思考が日本人にはできないから、ではないことだけは間違いない。つまり、「神の概念が日本人にはわからないから日本にキリスト教が根付かない」という話は妥当ではない。

そうではなくて、日本人は抽象的で論理的な話、そういうものの胡散臭さに敏感なのではなかったか。論理的なだけで、具体的現実に根差していない思想を軽蔑する思想風土が日本にあるとしたらそれは肯定的に評価されるべきことだと思う。そして、もし具体的現実に根差したキリスト教思想があれば、それは日本でも育つに違いないと思う。

イエスの絵など踏んでよいのだと豪語したセバスティアン・ロドリゴ神父、かっこよかった。

正直、打算抜きに人が何かを愛することはたぶんできないと俺は思うんだけど、それでもその愛の主体が、自分が思いつく限りでの打算を排したとき、そんな自分を好きになれるということは確実にあるだろう。それは「神の愛(=理念的愛=アガペー)がクソみたいな私という土くれの器に宿って溢れ出しているから、その限りで、この器はもはやクソみたいなものではない」と胸を張って言えるキリスト教徒の自己肯定感のようなもの。

神の愛は、生活の中にある愛という神秘を理念化したものに過ぎない。親の愛ですら、自分の子どもではない子どものためには死ねないと親たちがいうように、限界がある。恋人だって、犯罪を犯せばそれを許さずに別れようと言うかもしれない。しかしそうした限界をすべて突破した理念として、神の愛は仮設される。

人はなぜか愛するに値しないものを愛せてしまうということがあると思う。そういう神秘が生活の中に先にあるからこそ、その主体として神を想定できる。生活のなかにまず神秘があるからこそ神が想定できるんだと思う。

「私自身、兄弟たち、つまり肉による同胞(=隣人)のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています(ローマ人への手紙 9:3)」とパウロはいう。だから、神が愛を注入してくれてそれで私が隣人に善行ができるならば、その後で、「土の器(うつわ)」としての私は神から見捨てられて、地獄に行っても構わないとパウロはいうのである。天国に行くために着実に善行を積み重ねていこうという発想をパウロは取らず、そうやって天国で救われるべき自己さえパウロは捨ててしまうのである。多くの合理主義的神学者たちは、「こういうことをパウロが言えているということはパウロは神から自分が見捨てられていないという確信があるのだ。そもそも人は天国に行けず地獄に行くにも関わらず敵に与える善行ができたりしない。人はそこまで自己愛を捨てられないはずだ。」としてこのパウロの箇所をなんとか理解可能な形で掬い取ろうとするのだが、パウロはここで本気で自己愛はないのだから地獄に行っても構わないと考えているのである。

こういう、イエスの図像さえも愛ゆえに踏みつけ、愛ゆえに燃え、自らを燃やし、その炎ゆえに自己も教理も焼き捨てるような愛の神秘こそが、私はキリスト教思想の根幹にあるのだと思っている。そしてその愛に具体性がないとはまったく思わない。こちらからは何もしていないのに無償で与えてもらえた親(もしくはそれにあたる養育者)の愛をかつて受けたことがない者はいない。無力な赤子として生まれたはずなのに、そんな赤子をひたすら祝福させ、「おめでとう」と呼びかけさせ、なにも見返りがないにも関わらず自然と周囲の人の身体を動かしてオムツを変えさせた愛の力を感じたことがなければ、この文章を読める年齢にまで、誰も到達しなかったはずだから。抽象的な愛の発生には、まず具体的な根があるのだ。present(現存)とはpresent(贈与)であるという考え方は決して無根拠なものではない。賛成するかどうかは別として。

誘因なき愛、アガペーの打算のなさという余りに不思議な特徴ゆえに、この不思議な特徴を有する愛を発揮している(ように見える)自分や他人にはその人自身の力ではなく神の力が宿っているとされ、最大限に肯定される。つまり、キリスト教が凄いのは、分かりやすい見返りもなく何かを愛している人が、結果的には大満足してしまうという不思議な現象に説明を与えたことだと思う。

しかし、確認したいのは、そもそも神秘があるのだということ。つまり、個を犠牲にしてでも全体を存続させるという生命の古い古い運動がいまだに親や恋人との関係のなかでは残っていて、そしてそれが、たまに先祖帰りするかのように噴き出してくる。そうした神秘が実際にあって、それを理念化したのが神のアガペーなるものに過ぎないということ。つまり結局、神秘の方が神に先立つということ。

普通は神がいるから神秘があるんだけど、そうじゃなくて、神秘があるからそれを説明するために神があるということ。アガペーについても同じことが言えて、日常の中にまことに不思議な愛が出てくる時があるからこそアガペーという理念が描ける。

他者のために自己を捨てても構わないと思えるとき、それは狂気とか神がかりとも言われてきただろうけど、実際に人間生活の中にまずこうした状態があって、しかもこれは個が死ぬことで他者を生かそうとする生命の論理でもあると思う。

人間はカマキリではないのだから、高等動物としての人間の基本仕様は打算を含む愛なのだという主張も納得できるものではある。実際、紀元前にギリシア由来のエロースの概念ほうが先発的に概念化されており、そののちに、イエス・キリストの出現によってアガペーの概念化が始まり、アガペーは復権されていったのだから。しかし、後発的に概念化された打算を含まない愛であるアガペーが、エロースよりも重要なものとして人間生活の中で幅を利かせるということもありえるのではないか。

そして私もこうした打算なき愛の概念が人間にもたらす影響を重視したい。

そもそも、私がこの映画の中で描かれた踏み絵に惹かれるのには、二つの理由があると思う。

[⑴踏み絵が興味深い第一の理由]
長崎の奉行の井上らは、踏み絵を隠れキリシタンかどうかを判別するリトマス試験紙として使ってきたという当初の目的を超えて、もはやキリシタンであることが自明である村人に対してさえ、イエスを侮蔑する罰当たりな行為をさせること、つまりそれをやってしまったら信仰を捨てることになるかのような最大級のハラスメントとして提示している側面もあるということ。少なくとも遠藤周作はそのように描いている。だって、宣教師にさえ踏み絵をさせるわけだから。自分は仏教徒だと主張している隠れキリシタンに踏み絵をやらせるならわかるけど、自分はイエズス会士ですと名乗るポルトガル人に踏み絵をさせるのは完全に当初の目的が変質していると思う。長崎の信徒らを殺されたくなければ踏み絵を踏めと言われたポルトガル人宣教師たちが踏み絵を踏むシーンをスコセッシや遠藤周作は描いている。これはとても不思議なこと。キリスト教徒であることが自明なのに踏むのだから。

[⑵踏み絵が興味深い第二の理由]
逆に、今度はその踏み絵を、愛ゆえに踏むのであればイエスの呼びかけにむしろ適切に答えたことになるのだから、信仰を捨てるどころかむしろ信仰への覚醒なのだと捉える踏み絵の見方が出てくるということ。しかしこの流れはともすると、「真正なる愛の発揮があればイエスに答えたことにはなるのだから、キリスト教から異端だと言われてもなんの問題もないよね」とか、さらに進んで、「むしろ踏み絵を禁じたり罰したりするポルトガルの正統カトリックこそが異端なのだ」とか、その最果てでは、なんならフェレイラ(=沢野忠庵)という、キリスト教神学を批判する本を日本で書いてしまったポルトガル人宣教師のように、魔改造された無神論へと突き抜けてしまうことさえありえる(=いわゆる「転びバテレン化」)。

つまり、踏み絵をきっかけにキリスト教の徳目(=愛)がキリスト教という外殻を中から食い破っていく可能性に私は注目したい。これはキリスト教に対する外側からの攻撃というよりは内側からの発展とさえ言えると思う。

「愛ゆえにであればイエスに無礼を働いてもまぁ仕方ないよね」という穏健な立場の極点には、「初めて無償の愛というものがあることに気づかせてくれたのはイエスかもしれないけど、愛は自然と湧き上がるものでもある。そして、その愛があればイエスなんかどうでもいいよね。幾らでもイエスの図像なんか踏めますわ。」という無神論があると思っているということ。つまり、補助輪にさんざんお世話になったくせに、いったん自転車に乗れるようになるや、その子どもがポイッと補助輪を捨てられるように、なんの抵抗もなくイエスを踏めるようになるかもしれない、ということ。踏み絵はこういう契機を含んでいるかもしれないのだ。

ちなみに、踏み絵を描いた『沈黙』という作品は正統カトリックからすれば異端と言われることがあるらしい。厳格さを強調する父的な神にフランス留学時代の遠藤周作は嫌気がさし、尊敬していた神父が棄教したことも受けて書かれた作品が『沈黙』で、だから、「神は沈黙しつつも全てを受け入れ全てを共に苦しみ全てを許し全てを包摂する」という母的な神をそれに対置しているのだと私は理解している。

だから、遠藤周作が自分ではカトリックと名乗りつつも、フランス本国での遠藤周作の本『沈黙』の受容は割と微妙だったことにも理由があると思っている。踏み絵をイエスが推奨するかのような描写は異常過ぎるし、冒涜的にも見えるかもしれないということである。

ただ、天国へ行く権利さえ打算的として焼き捨てる無償の愛こそがキリスト教思想の核心であると考える私には、冒涜的には見えなかった。


【気になったところ】

❶「沈黙」というタイトルの映画で、しかもその「沈黙」の意味を塗り替えるような映画なのですから、最後の最後でイエス・キリストがペラペラと喋り始めるのは説明過多だなと思ってしまいました。どうなんでしょうね。

❷小松菜奈が演じたモニカが天国を問題にするシーンです。あそこで天国についてせっかく話題が出たのだからロドリゴにもう少し考察を迫らせてもよかったと思いました。それから

❸通辞役に選ばれた浅野忠信が

We wanted to be fair. And we do have a better grasp of your language than you do of ours. Cabral could never manage much more than arigataya. All the time he lived here he taught but would not learn. He despised our language, our
food, our customs.

と発言するのですが、このセリフ、深いと思います。教えにくるばかりで決して学ぼうとしない態度が西洋人にあったに違いないので、そこをもう少し描いてもよかったなと思いました。



【あまりにも好きな対話シーン】

Your martyrs may have been on fire, Father, but it was not with faith.
お前の殉教者たちは熱い想いに燃えていたのかもしれない。しかしそれは信仰に燃えていたのではないのだ。

No! I saw them die! Those people did not die for nothing!
いいえ、私は彼らが命を燃やすのを見ました。彼らは無のために死んだのではありません!

Indeed not. They're dying for you.
ああ確かに、彼らは無のために死んだのではないな。彼らはお前のために死んだのだ。

And how many did you save when you crushed the image of Our Lord? How many beside yourself?
それであなたは主の像を踏みにじることでいったい何人を救ったのです?あなたの他には何人を救ったのです?

I don't know. Certainly not as many as you may help.
正確にはわからぬ。だが、お前が救えるほどの数ではない。

You're only trying to justify your own weakness. God have mercy on you.
あなたは(信仰を捨て、生きることを優先してしまった)自分の弱さを正当化しているだけです。神よ、この方を憐れみたまえ。

Which god? Which one? We say..."Mountains and rivers.(stops)" I'm sorry. You haven't learned the language thoroughly, have you. There is a saying here. "Mountains and rivers can be moved. But man's nature cannot be moved." It's very wise, like so much here. We find our original nature in Japan, Rodrigues. Perhaps it's what's meant by finding God.
どの神のことかね。どの神でもかまわん。いいか、「サンガハアラタム」というではないか。そうか、お前はまだ日本語が不自由であったな。こういう言い回しがあるのだ。「山や川はその形を変えるけれども、人の本性は変わらぬ」という意味だ。この地にある多くの知識と同様にこれも賢明な教えだ。ロドリゴよ、我々はここ日本で、人間の本来の在り方に出会うのだ。そしておそらくそれこそが、「神と出会う」ということの意味なのだよ。

You are a disgrace, Father. I can't even call you that any more.
あなたは恥さらしです、神父よ。いやもうあなたを神父とお呼びすることさえ私にはできない。




この対話なんですけど、なぜ私はここが好きかと言うと、ロドリゴ神父(=元になったのはジュゼッペ・キアラ、also known as 岡本三右衛門)は、

「神なくば無」

というふうに考えていることがわかり、実は従来型のキリスト教こそがニヒリズムに直結する思想なのだということが如実に現れているセリフだなと思うからです(実際、ロドリゴ神父にとって、他人のために死ぬことは神のために死ぬことからしたら無でしかないと言われているように見える)。このロドリゴ神父に対して、神がいなくても他人たちとの絆が残るではないかと説くフェレイラ神父こそ、強く見えます。しかしその強さがロドリゴ神父には弱さに見えてしまうというセリフ展開も面白いです。

また、フェレイラには、<慈悲>という、仏教だろうがキリスト教だろうが、それらの諸宗教がその上に育つしかなかった普遍(不変)なる価値が見えているのですが、ロドリゴはあくまでもキリスト教カトリックこそがその普遍(不変)の座に座るべきだと考えているようです。この対立点もえぐられています。

フェレイラならば愛を慈悲と呼んでも仁と呼んでも隣人愛と呼んでも別にどれでも構わないと言うでしょう。

政治学者の中島岳志が、こういう立場を「宗教多元主義」ではなく、「多元主義的一元論」と呼ぶべきではないかと述べていたのを見たのですが、なるほどと思いました。

『沈黙』には、いろいろな対話が出てきますが、ここがとても好きでした。
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