映画ケーン

沈黙ーサイレンスーの映画ケーンのレビュー・感想・評価

沈黙ーサイレンスー(2015年製作の映画)
4.7
観てない人がいたら、こう言う。
めちゃくちゃ面白い。

原作を読み、日本版の映画も観た!

ので、ガッツリ書きます。
( ´ ・ ω ・ `)و がんばるぞい!

《まえがき》
原作『沈黙』の作者遠藤周作はキリスト教のカトリック教徒であり、彼のエッセイやカトリック関連作品等を読んでいれば分かるらしいが(『沈黙』以外は未読です。お赦しをぉ…)、カトリック教徒を辞めたくても辞められなかった。その経験や葛藤、今作の様に、カトリックと日本文化とは合わないのでは無いかという違和感やその理由がどこから来るものなのか、等を文学作品や文章にしているそう。

神の沈黙という永遠の問いに答えを出した!果たして、その答えや如何に!!

エッセイでは、彼は小学生の頃、半強制的にカトリックの洗礼を受けるも、カトリックに馴染めず、成人後に母に棄教宣言をした。しかし、その時の悲しそうな母の表情にイエスの悲しげな姿を重ね、どうしてもカトリックが捨て切れなかった心情が書かれているそう。
が、最後はカトリック教徒として秘跡を受け、葬儀ミサを挙げられた。つまり、カトリック教徒として最後を閉じた。死ぬ前に「カトリックの葬儀だけはやめてくれぇ」と言わなかったという事でしょうから。

《ザックリ感想》
今作は人気のあるマーティン・スコセッシ映画の真髄とも言える犯罪と体感速度を早めるアップテンポの音楽が全く無い。それにも関わらず、とても面白く、159分が退屈にならない。

エンタメ性にも優れている。
まずオープニング。神の沈黙により、波の音や虫の鳴き声が際立って聞こえる。それを意味したそれらの音が鳴る。そして、その音も沈黙し(ここもブツッと音が無くなるのがイイ)、「Silence」と出る。かっこいい。
ぬっと出てくる奥さん。
片桐はいりの告解のシーン(彼女の笑える感じをスコセッシは分かっていたのか)。
原作にもある、日本人の”表向きは”人が良い様に見せる嫌な感じも今作にはある。日版『沈黙 SILENCE』にはそれが感じられなかった。

塚本晋也が十字架を貰った時に虫の鳴き声が鳴る。水を得た村の様な感じを上手く表現している。

流石ハリウッド!渡部哲とか青木崇高とか黒沢あすかとかをちょい役にも使ってる!え!あれ加瀬亮なの!?EXILEのAKIRAも!
EXILEの狂信者の方はご覧になられては。

韓国人出てなくて良かったw

何より日本映画っぽい!
日本描写がまとも!
浅野忠信もイッセー尾形もイイ!

《スコセッシの作劇法》
前記した彼の映画の特徴以外に、Lカット(カットの音声が次のカットにも続く手法)とJカット(次のカットの音声が前のカットから入り込む手法)の多用がある。それらがある事により、意識がカットではなく音に向く為、切れる感じが無く、持続感がある。今作もそれらが多用されている為、退屈しない。
構造的にも、原作がそうなのだが、モノローグが入っているところはスコセッシ映画らしい。

塚本晋也の歌うシーン、脚本には「歌ったそうな」としか書いておらず、彼が歌うアイデアを提案したそう。そういう役者からのものをどんどん映画内に取り込んでいくのもスコセッシ映画らしいところ。

そして、メッセージも実は一貫している(後記)。



👼以下、ネタバレ😈




《原作、日版、米版の違い》
原作と米版(今作)は大きくは違わないが、映画にする以上勿論の事、重箱の隅程の違いは沢山ある。
主人公セバスチャン・ロドリゴが牢屋に入れられた後、別の牢屋に居る信徒の元へ行き、司祭としての仕事をするシーンがあるが、原作では、看守に信徒の居る牢屋に行き、司祭の仕事をさせてくれと頼むとそうさせてくれた。それ程丁重に扱われたという様に書かれている。
そこが「頼む!彼らのところへ行かせてくれ!」的なシーンも無く、いきなり彼らの元へ行くシーンが出てくる為、「ん?」となる。そこは説明があった方が良かった様に思う。(皆さん、これを重箱の隅を突くと言うんですよ)

とにかく、スコセッシは原作にかなり忠実に描いている。それぞれの描写に違った思想が含まれたりしていない。と言うより、スコセッシの思想が遠藤と同じであると言った方が正しいだろうか。

ただ、前記したスコセッシの作劇法故か、映画にする以上当然だが、原作よりもテンポ良く進む印象がある。もう少しロドリゴの揺らぎの心情を(台詞では無く)描いても良かったのではーとも思ったりする。

日版は米版、原作とは真逆かつ「そこで!?」という終わり方をする。
男としては続きも見たかったが…

《キチジローへの感情移入》
恐らく、多くの人は窪塚洋介扮するキチジローに感情移入したであろう。もう1人の主人公である。キチジローとは弱く、卑怯で哀れな者。それらは人間が必ず持っている部分である。彼は遠藤自身であり、スコセッシ自身でもあるのだ。

原作では「狡そうな目」と何度も出てくるが、日版のキチジローを演じたマコ岩松の方が狡い目で卑怯、弱く見えるが、「卑怯」程立派では無い感じまで現れている。
原作では町中に自分(キチジロー)が司祭を連れてきたと自慢するというシーンがある。その感じもマコ岩松にはあるが、窪塚洋介には無い。
窪塚洋介はイケメンだからなんだよね。

今作の窪塚洋介のキチジローとキリストとが寄せてあるという説については、「神」へ導いた存在として重なっている。
狡そうな顔を取るかキリストと似ている顔を取るかどっちを取るかだったのだろうが、キチジローが遠藤自身である事の方が重要に思う。
どっちも取るのが1番良いが。

だが、勿論の事、ロドリゴにも感情移入が出来る(個人的にはこっちの方が出来た)。
極限の状態で、神を否定する様な状況が幾度と無く出てきても尚信じるのか。神がなぜ沈黙するのか。それがこの作品のテーマである。
そこに、究極と言うべきか、それこそ卑怯と言うべきか、神を信ずる為の回答を最後に叩き出す。

《キチジローとユダ》
最後の晩餐でも有名だが、ユダはキリストを銀30枚で売った。映画でも裏切り者としてユダが登場する事は多いが、今作ではキチジローが正しくユダである。そして、キリストは裏切り者のユダに「汝の為すべき事を為せ」と言う。
ロドリゴはなぜ裏切り者にその様な事を言ったのか理解出来なかった(詳しくは後記)。
今作の中でも何度も「為すべき事を為せ」という台詞が出てくる。これが大きなキーワード。
例えば、キチジローに踏絵を踏ませ、AKIRAが「あやつは自分のすべき事をした」と言ったり。

《神様、なぜ何も仰らないのです??》
さて、ここまで長々と書いてきて(読んでくれてる人ありがとう😆 神の御加護が有りますように…)、御主もそろそろ疲れてきた事であろう。じゃが、もう少し付きおうてくれんかの。

「なぜこれほどの人が苦しんでいる中、あなたは沈黙しているのですか。」と、神の不在に揺れるロドリゴだが、最終的に、ある回答をに辿り着く。
彼は集団的信仰より個人的信仰を選んだ。つまり、キリスト教を信じるのではなく、キリストを信じるという方法を選んだ。言い換えると、他の聖職者たちを裏切った背信者であろうとも心の内で神を信じているという事である。

キリスト教を否定する態度を取りつつ、実はそこまで語ってきたそれら全てを肯定するという荒業に遠藤は出たのだ。究極と言うべきか、それこそ卑怯と言うべきか…
だが、それを書いた者、物語内でそこに導いた者が遠藤周作(キチジロー)であるという構図は素晴らしい。
どういう事かと言うと、AKIRAの「やるべき事をした」という台詞があった様に踏絵は踏んでも良い、なぜならキリストは信徒の味わう痛みを共に味わっていたのだから。つまり、神は見て(沈黙)いたのでは無く、痛みを共にしていた。「自分の人生があの人について語っていた」と言う様に、神は己の内に居る。正に神は全てを見通していたのだ。「為すべき事を為せ」と言ったのは、踏絵を踏むロドリゴの足が痛む様にユダの心も痛んだのだから(ユダはその後自殺している)。

明言はされないものの、原作では今作以上になぜ百姓にキリスト教が人気が出たのかが書かれている。奴隷の様に、牛馬の様に働き牛馬の様に死ぬ百姓にこそ「何かの為に」という生きる事に目的、意味を与えるのが日本人にとってキリスト教であった。年貢を納めなくて良い役人にとって死後年貢が無くなろうと幸せに暮らせようと然程関係無いからである。
だが、ユダ同じく、殉教出来ないキチジローこそ真に弱き者であり、真に神が必要な者なのだ。それこそ、キリスト教の本質なのではないのか。「美しい者の為に死ぬのは容易い、醜く腐敗した者の為に死ぬのは難しい」

神のする事は全て善き事であり、今の苦難も我々が理解出来ないだけで何か意味があるのだ。(んな訳ねーじゃん)が、原作では踏絵を踏んだ後、最後に「自分は彼等(聖職者たち)を裏切ってもあの人を決して裏切ってはいない。今までとはもっと違った形であの人を愛している。私がその愛を知るためには、今日までのすべてが必要だったのだ。私はこの国で今でも最後の切支丹司祭なのだ。そしてあの人は沈黙していたのではなかった。たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた。」と来る。その最後には鳥肌が立った。(そう来たか、やられた)
要するに、繰り返しになるが、神は全てを見通していたのだ。

最後のロドリゴの手の中に十字架がある様に、周りから何と言われようが、「裏切り」をしようが、”形式”上で負けていようが、俺はまだ終わっちゃいない。まだ負けていない。というボンクラを肯定、鼓舞してくれるメッセージ。
これは実はスコセッシの一貫したメッセージである。たとえそれが女やドラッグ、犯罪をやらかしちゃう映画でも、根底にはボンクラ精神がある。否、ボンクラこそ最強なのだぁ!

超カトリックというより真カトリック。というより、それが信仰の本質だと思うが。

原作では踏絵に足を掛けてからロドリゴの「神は裏切っていない」という心情が物語の進行と共に並行して語られるが、映画では最後の最後に「実は…」という様に観客に知らせる映画的な演出になっている。

又、遠藤は敢えて異国人を主観に置き、語る事でキリスト教(特にカトリック)の「普遍性」を描いている。つまり、先の様に、負けていても、信じるという、正に普遍性だ。
それをさらに外国人のスコセッシが映画化と考えると面白い。マコーレ・カルキンとライアン・ゴズリングがお互いの写真のプリントTシャツを着るみたいな。

この後にまた『The Irishman(原題)』を制作していると考えると「この人の作る映画は衰えてない!歳を取ってない!」と思う。

《まとめ》
芸術映画としては素晴らしいし良い出来だが、構造上仕方ないが、主題に絡む描写が後半に集中している為、前半、中盤は逃走と拷問が多く、端的に言って物足りない感じが否めない。主題との関わりは無い訳では無いが、繋がりが薄い様に思う。もう少し前半や中盤に意味深な台詞や描写を入れれたのでは。
映画ケーン

映画ケーン