沈黙ーサイレンスー(2015年製作の映画)

Silence

上映日:2017年01月21日

製作国:
  • アメリカ
  • / 上映時間:159分
    監督
    マーティン・スコセッシ
    脚本
    ジェイ・コックス
    原作
    遠藤周作
    キャスト
    アンドリュー・ガーフィールド
    リーアム・ニーソン
    アダム・ドライバー
    窪塚洋介
    浅野忠信
    塚本晋也
    イッセー尾形
    笈田ヨシ
    小松菜奈
    加瀬亮
    遠藤かおる
    井川哲也
    PANTA
    松永拓野
    播田美保
    片桐はいり
    山田将之
    美知枝
    伊佐山ひろ子
    三島ゆたか
    竹嶋康成
    石坂友里
    佐藤玲
    累央
    洞口依子
    藤原季節
    江藤漢斉
    菅田俊
    寺井文孝
    大島葉子
    西岡秀記
    青木崇高
    SABU
    渡辺哲
    AKIRA
    田島俊弥
    北岡龍貴
    中村嘉葎雄
    高山善廣
    斎藤歩
    黒沢あすか
    あらすじ
    17世紀、江戸初期。幕府による激しいキリシタン弾圧下の長崎。日本で捕えられ棄教したとされる高名な宣教師フェレイラを追い、弟子のロドリゴとガルペは日本人キチジローの手引きでマカオから長崎へと潜入する。 日本にたどりついた彼らは想像を絶する光景に驚愕しつつも、その中で弾圧を逃れた“隠れキリシタン”と呼ばれる日本人らと出会う。それも束の間、幕府の取締りは厳しさを増し、キチジローの裏切りにより遂にロドリゴらも囚われの身に。頑ななロドリゴに対し、長崎奉行の井上筑後守は「お前のせいでキリシタンどもが苦しむのだ」と棄教を迫る。次々と犠牲になる人々。守るべきは大いなる信念か、目の前の弱々しい命か。心に迷いが生じた事でわかった、強いと疑わなかった自分自身の弱さ。追い詰められた彼の決断とは―。

    「沈黙ーサイレンスー」に投稿された感想・評価

    周りがまじで年配の方しかいなくてびっくりしたけどこの作品、凄くよかった。
    冒頭からの雰囲気づくりが素晴らしく一気に引き込まれた。ひぐらしの鳴き声など自然音の使い方が秀逸。構図にもセンスを感じた。何故か邦画以上に日本人俳優の良さが引き立っていて、イッセー尾形さん演じる井上筑後守は特に輝いていた。

    信仰とはなんなのか。あまりこの言葉は使いたくないけど、確かに「考えさせられる映画」だった。自分の中で解決はしていない。いつの時代でも本当はどちらが正しいでもない。内容に関して多くの言葉が出て来ないのが悔しいが宗教を学びたいと思った。
    アンドリュー・ガーフィールドとかいう2016年キリスト教について悩む役ばっか演じた俳優は、確かに苦悩のやはりがハマっている

    それにしても遠藤周作の原作をスコセッシがどうぶっ飛んだ作品に仕上げるかずっと楽しみにしていたのだけど、思いの外地味な出来になっていてつまらなくは決してなかったのだけど拍子抜けだったし、ぶっ飛び具合でいえば篠田版のが上だった

    でも思い返せばスコセッシは最後の誘惑みたくキリストが関われば真摯な作品を手がけ、クンドゥンみたく東洋が舞台なら地味目に仕上げるような男で、この二つの性質が合わさったらと思うと合点がいき、これは予測できなかった自分のミスだなと反省

    しかしやっぱりできればウルフオブウォールストリートみたいなイかれた作品が見たかったよな……
    火葬ってあり?
    どれだけ苦しもうが、
    どれだけ叫ぼうが、
    どれだけ祈ろうが、

    司祭は自身の信仰のために殉教しようとしますが、日本の信者は、来世での幸福(仏教的来世利益)を祈って死をも恐れずに殉教します。

    日本人と司祭とで、そもそもの信仰(キリスト教)への意識が異なり、司祭が導かずとも人々に安穏は訪れ、さらに導かない方が人々はより良く暮らせるという自己矛盾。

    さらにセバスチャンが拷問の前に無力さに打ちひしがれる様や恐怖の中で信仰が歪んでいく様に戦慄します。

    途中の禅問答は、世界各地の宗教対立で繰り返し語られてきたことに近いのだろうなと思います。

    信仰したいのに心では恐怖に向き合うことができないキチジロウ。
    彼を私たちは蔑むことができましょうか?

    あれが人間の本質なのではないでしょうか?
    信仰とは何か。
    信じるには何が必要か。声なのか。
    聞こえなくても信じれるのか。

    自分のためにどれだけ人を犠牲に出来るか。自分のためでは耐えられないけど、神のためにだったら高潔な死に、立派な勇敢な死になるのか。

    信仰心が全くわからないから、理解は出来ない。途方も無い絶望にしか見えない。
    命より大切なものがあるとは思えない。

    でも死んだ方が楽になれると思ったら、現実がそれほど辛かったら、同じように死ぬなら、自分が信じた神のために死ぬことは怖くないのかもしれない。

    結局想像できないんだけど。


    これを日本人の遠藤周作が書いたということが面白い。それを外人が映画化するのが面白い。
    苦しすぎて評価ができない。。

    このレビューはネタバレを含みます

    小説も読んでみました。
    映画はとても小説に忠実でした。

    日本に布教に行ったフェレイラ先輩=クワイガンジンが棄教したらしい…噂では日本ではキリシタンに対して半端ない弾圧をしてるらしい。
    危険だけどこれはキリスト教の敗北を意味する一大事。しかもあのフェレイラ先輩が棄教するなんてあり得ない!

    ロドリゴとガルペはマカオから中国人の紹介で汚ったない怪しい日本人キチジローと長崎に向かう。

    このキチジローのお陰で何とか長崎にたどり着いて、隠れ切支丹たちと交流するが、それが元で隠れ切支丹たちは激しい拷問により棄教に迫られる。なかなか棄教しないキリシタンたちへの拷問はよりエスカレートしていく。ただし映画の中ではすべてのキリシタンがなかなか棄教しないんですが、全ての人がそうではないと思います。

    この迫害を主導しているイノウエ様がヤバイ。ドSで身体的に、否それ以上に精神的に宣教師たちを削っていく。イノウエ様は「お前たちのデウス様はなぜこのキリシタン達を助けない?」「お前達が来なければ、こんなに苦しむ必要はない」「転べ!=棄教しろ!」と囁く。

    キチジローというやつは極めて仏教的というか業の塊と云うか…心の底でどうしても許せないよと思うロドリゴ。
    なぜならある意味キチジローは賢い。例えキリストの顔を踏んでも、おいらは神様を信じると云うことならいいじゃないか。それでみんながハッピーならいいじゃないか。
    でもこのキチジローの本当の弱さは、これは形だけの棄教なんだ…いや先生!俺は弱いんじゃ!みんながハッピーならとかじゃなくて、本当は自分が助かりたいからなんだ!おいらは生まれ持って弱い人間だ!どうしたら死ぬことすらできないおいらはこの馬鹿が治るんじゃろうか!?というところだ。
    その本当の弱さについてロドリゴは苦しめられる。じゃあ許せねぇよ!許すって何だよ!と目の前にいるキチジロー=ユダを見て思うのです。

    でも僕自身ここで思うのは、宗教ってその人の一部でしかないじゃないの?何でその人の全てみたいに語らなきゃいけないの?だってキリシタンである前に村という共同体に属し、家族を養うってそれだけで価値があるじゃないか、ってもっとキリスト教宣教師が言っても良かったんじゃないかと思います。

    フェレイラ先輩曰く、日本ではキリスト教は布教できない泥沼なんだ。一時期キリスト教の布教の根は広がったが、もう根は腐ってしまった!と云う。だってデウスのことを日本人たちは最終的に大日様=お天道様って言ってるんだぜ!違うって言っても効かないんだ!目を覚ませロドリゴ!お前がいくら頑張っても無駄なんだ、お前が意固地になって目の前の信者が死ぬんだぞ!と先輩は云う。むむ〜…悩むロドリゴ。

    激しい拷問が描かれ、すげぇなと思ったのはやはり「穴吊り」と云うもの。頸動脈に小さな針を刺し、逆さに吊るしてゆっくりと血を抜くという、よく思いついたな、普段から苦しいことばかり考えてないと考えつかないよなと思うようなもの。反面それだけキリスト教を危険分子として考えていた当時の背景により興味を持ちました。

    拷問を間近で見せられてロドリゴは思います。

    「神様、何で黙ってるんすか!?何で信心深い善良な者達を助けてくれないんすか!もう十分苦しんだでしょ!何とか言えや!!」

    「…踏みなさい…」

    「へ?」

    「踏みなさい」

    その踏み絵のあの人はとても穏やかなお顔をしていて…あぁ〜〜!!!…

    以上、観て良かったと思います。

    なんで踏まないんだ!とモヤモヤするんですが、キリストの姿を自分の両親や大事なものに置き換えて、それを何食わぬ顔で踏んだり唾を吐きかけることを思うと、難しいことなのかなぁとも思いました。

    以前、ある地域の警察が自白を迫る為に両親の顔を踏み絵させたということが問題になってました。それを思い出しました。
    鑑賞中に「隠れキリシタンゴ」が頭の中で流れて本当に困った

    時代や生きる場所関係なく心は自由でありたいですな
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