わたしはこの映画をみてひどく安心したのでした。
それは彼女が社会的弱者であったからだし、彼女の天才的な写真をみて感動したからかもしれない。
そんな彼女の死後に見知らぬ誰が彼女の写真を救ってくれたからかもしれない。
本当のところはもっと因数分解してみなければわからない。
私は写真を撮ることを仕事にしていることに罪悪感がある。
写真なんて誰にでも撮れるからと思うからだし、
そんなことを仕事にしてますと言っている自分が恥ずかしいからでもある。
なんで恥ずかしいのかというとうまく言葉にできないのだが、理由はしっかりしている。
簡単に言うことができるなら、写真を仕事にする為に写真を撮るということが恥なのだ。
彼女は写真を撮っていた。
それは仕事でもないし、誰かに褒めてもらいたいからでもないし、大学で単位を取るためでもない。ましてや、子どもの成長記録でもない。
それが良かった。正方形の画角の中に彼女は写っていなくても彼女がいた。
彼女の関心は何だったか。
見知らぬ誰かへの関心。
見知らぬ誰かが生きる様、それにすれ違う自分。
それだけなんだけれど、ひどく良かった。
言葉にするにはもったいないほどに良かった。
写真にしか伝えられないことがあった。
そんなもの私には撮れない。だから彼女の写真は素晴らしい。
これをみて私も写真を撮ろうなんて思ってしまう自分をまた恥ずかしいと思った。
彼女は誰に言われるでもなく写真を撮っていた。
私は撮らずにはいられないという衝動なんてもうとっくになくなっているからダメなんだと思った。
もうダメなんだと安心して思えた。
それでも、誰かに認めて欲しくてわたしはまた写真を撮るのでしょう。
そんなことやめてくれと恥ずかしく思う。
それでも誰かわたしを認めてくださいとすがる自分がいる。