わたあめ

自由が丘でのわたあめのネタバレレビュー・内容・結末

自由が丘で(2014年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

時間軸がバラバラで、すごい構成でした。
それ以前に、冒頭からいきなりの引きから寄りに変わるズームのシュインッって感じの動きが堪らなかったです。

個人的に好きだったのは、トイレに閉じ込められたモリ単体のシーン。単に、僕がトイレという空間を好きなだけかもしれませんが、今まで見た映画の中でベストオブトイレットに入ります。(トイレって映画にあんまり出てこないよね)

続いて、驚愕したシーンが、ニートの甥が家出女性と喧嘩していた場面。いきなり喧嘩するのにも驚いたが、甥がモリに"she is bixch"と永遠に叫んでいたところです。僕は、英語圏に数年間住んでいたのでわかるのですが、こんなにも軽々しく言ってはいけない卑猥な言葉を、気分任せに言う行為は正直ビビりました(普段、日本人がふざけてfxxkやbixchとか言ってるのも、おいお前ら恥を知れって思います)。母国語ではないからでしょうか。

母国語といえば、映画内で登場する人物は母国語を話している時間が少なかった気がします。モリ(日本人)は英語、韓国人も英語、アメリカ人も韓国語を話していたり、とても不思議な感じでした。道具としての言語、という認識でしょうか。

同じ韓国人同士が喧嘩して分かり合えないのにも関わらず、外国人と仲良くなれる。人として理解しようとする心がなければコミュニケーションは難しい、ということですね。

映画の構成の話に戻りますが、この映画のシーンはだいたい1カットでした。それは映画自身の最大の特徴である連続性を最小限に抑え、時間という概念に抵抗しているように感じました。映画は、いかに自我を画面に出さずに自然に見えるように構成するのが一般的です。しかし、この映画は、ソウルに来てから探している彼女が手紙をバラバラに落とすシーンまで(あとはカフェで手紙を読む手元のショットなど)しか、映画内の時間が一致していません。手紙の内容であるモリの行動は、いわゆる記録であり、どの時間帯に存在しているか、もはやわからず、映像に浮かび上がらせているだけ、と感じます。だから1シーン1カットで、既存ではない方法で、映画に自我を出さず、自然に見えるように構成しているとおもいます。まさに、1シーン1シーンが記録の断片(=手紙)でした。
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