土偶

野火の土偶のレビュー・感想・評価

野火(2014年製作の映画)
4.0
塚本晋也監督の「鉄男」を20年位前に観て見て衝撃を受け、そのすぐ後に「鉄男Ⅱ」を観たものの全く面白くなくて「やっぱり一発屋か…」という印象を持っていたのを当時に書いた感想を見て思い出した。
塚本晋也作品はその「鉄男」「鉄男Ⅱ」に加えて最近「KOTOKO」を観ただけだけど、「鉄男Ⅱ」の記憶がその印象とともにすっぽり抜け落ちていて氏の作品といえば「鉄男」や「KOTOKO」の圧倒的な印象と孤独な都市生活者の様々な個人的な「実存的な痛み」をテーマとしてそのあり方を直接的に描いているようなイメージを持っていた。
氏が個人の孤独とその痛みをテーマにするのではなく、「野火」といった古典的な戦争文学を映画化しているというのがちょっと意外だったのだ。
多くの文学者、例えば村上春樹や大江健三郎やドストエフスキーのような、デビュー時や若いころはひたすら自己と対立する他者や社会との狭くて個人的な関係について書いていた人が、ある時期から自己が含まれるものとしての世界や文化といった大きな対象との関りを描き始めることがある。(自分自身が救われたと感じたのが切欠ではないかと私は思っている)
村上春樹が河合隼雄との対談の中で氏自身の作品のテーマの変化について自身で述べている、こういった「デタッチメントからコミットメントへの変化」が同様に塚本晋也氏の中にも起こったのではないかと思ったのだ。
私自身が「鉄男」を観た当時に持っていた問題意識と今持っている問題意識についても同様の変化があってなにかしらリンクするところがあり、個人の「痛み」に特化した作品の「鉄男」を描いた人が、個人と戦争という大きなテーマを持つ「野火」をどう描くようになったのかとても興味深く感じられたのだ。
原作の大岡昇平『野火』といえば新潮文庫の中の一つの短編でそれほど長くなくすぐに読めるせいもあり、「文学」ばかりを読んでいた大昔から今に至るまで何回も読んでいるはずだけど、覚えているのは、戦争しているはずなのに敵と戦わずにひたすら内輪揉めして食べ物ばかりを探している「いったい何と戦っているんだ!?」的な状況、死に瀕した同胞に「俺を食べてもいい」と言われて「えぇっ!?」となるところ、そしてこの作品を語る上で最もクローズアップされがちな、かの有名な「同胞の肉を切り取ろうとする右手を左手が止めるシーン」だった。
しかし映画ではこの「右手を左手が止めるシーン」がなかった。もしこのシーンがあったらとてもドラマチックで映画映えしたシーンになっただろうと思う。
塚本晋也氏は『野火』を何度も読みずっと映画化したかったらしく、当然このシーンが文学としての『野火』の最重要テーマの一つだと認識していたはずだろうけど、あえて描かなかったことについて何かの意図があるとしか思えず、この映画について書かれた感想について色々読んだけどこの「右手を左手が止めるシーンがなかったこと」について書かれたものはなかったように思う。
何かについて語る時にあった事や語られたことついては比較的簡単に書くことができるけど、語られなかった事や省かれた事について言及するのは難しい。しかし、往々にして「語られなかった事」や「省略された事」が大きな意味を持つ事があるのだ。
この「右手を左手が止めるシーン」は人間の理性と獣性、倫理と本能の対立のような文脈で語られることが多い。そして人間性が非人間性に打ち勝ってこそ人間なのだと。
塚本晋也氏がここを描かなかったのは最初から人間の理性や倫理のようなものを信頼しておらず、そもそもそのどちらもが対立関係になく、そして生き残ることと人間性を保つことには相関性はない。と確信しているのではないかと思う。
そしてなによりもこのシーンに特有な文脈でこの映画を語られたくなかったのかもしれない。
この映画にも原作同様に戦争の悲惨さとか非人道性みたいな文脈で語られることが多いけど、私の印象に残ったのはやっぱり塚本晋也作品らしい精神的で肉体的な「痛み」と、他の戦記物ではあまり印象に残らなかった人間の環境適応能力の高さだった。
何も持たずにジャングルに放り出され、通常の社会生活と同じ規範で生活していてはすぐに死んでしまうような状況下に置かれた人間がすぐに今まで持っていたあらゆる価値観を捨てて「生き残るモード」になって適応し、その飢えや死を回避するために食べられそうなものは何でも食べ、利用できるものは何でも利用し、敵兵はもちろん飢えと病と毒にも痛めつけられ、同朋を殺して食べて生き延び、そしてそんな状況から生還してて普通の生活を営んでいてもその記憶が自身を苛む。
人間は普通の動物ならすぐに死んでしまうような状況に適応して生き延びることができ、生き延びるからこそ多くの痛みを引き受けざるを得ない。「生」と「痛み」が不可分で混在しているというのが人間存在のありかたなのだ。といったところだろうか。
同様のサバイバル系の戦記物、例えば最近読んだものでは水木しげるの『ラバウル戦記』などでは物語の間から作者である水木氏自身の激しい怒りのようなものがひしひしと伝わってくるのだが、この映画ではそんな怒りや憤りは全く感じられず、とにかく主人公の死にたくないという欲求や飢えの苦しみや倫理と欲求に揺らぐ葛藤だけがそのままの形で伝わってくるように思う。
この映画を見る人に対して、このような経験をしたいか?愛する人にさせたいか?という問いが発せられる時、殆どの人にとって答えはNOで、そしてこの状況に陥りたくなければどうすればいい?と問われれば「戦争はすべきでない」となる。この物語が反戦の文脈を持ちうるとしたらこの点になるだろう。
「右手を左手が止めるシーン」で象徴されるイデオロギー臭や思想性といった、人間性の非人間性に対する勝利を前提としたリベラル的な世のメディアでありがちな方向や方法から反戦を説くのではなく、人間個人の痛みや絶望や苦しみに根差した人間存在そのものの部分を根拠とする塚本晋也氏らしい方法論がここにあるように思う。
人間存在の持つ「痛み」を描き続けてきた彼は「痛み」を通じて他者と世界とコミットしようとしているのだ。
しかし同じ問いをされた時に、ならば部下にさせるべきだな。一兵卒ではなく士官になって指揮すべきだな。自分が関わらないところで起こすべきだな。と考える人にとっては何の抑止力もならないのもまた事実で、こうした「反戦運動」の限界もまたそこにある。

以前、沖縄の北部のほとんど人の入らない山に登った時に皮膚を焼く陽ざしと熱帯植物の作る日影、艦砲射撃の跡の窪みに咲き乱れる原色の花の周りでひらひらと飛ぶオオゴマダラと色の濃い下草、そして本州では聞いたことのない電子警告音のように響いて不安をあおるオオシマゼミの甲高い鳴き声とその合間に訪れる風の止まった午後の耳の痛くなるほどの無音、そういった熱帯特有の自然の作るコントラストは熱帯特有の「生と死」を深く意識させるものだった。
この映画のジャングルの花や自然の描写にもそういった要素に加えて自然の美しさと人間の醜さといったコントラストが際立っていた。
息を殺して潜んでいるジャングルにオオシマゼミだけがけたたましく鳴いているシーンでその沖縄の風景をありありと思いだしてフィリピンにもオオシマゼミが?と調べてみるとオオシマゼミは奄美と沖縄の日本固有種らしい。うむ?このシーンは沖縄ロケか??
しかしフィリピンにもオオシマゼミじゃないにしろ似たような声の他の蝉はおるんじゃないか?とセブ島に留学していた友人に聞いてみたところボホール島で似たような声を聴いたことがあるようなないようなという証言が!!
ボホール島?初めて聞くな。うむ。レイテ島の南か。
この「オオシマゼミ」のような「電子警告音のような声で鳴く蝉」について興味が湧いてきたけど全然関係ない話になりそうなのでこの辺にしておこう。
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