葛西ロボ

野火の葛西ロボのレビュー・感想・評価

野火(2014年製作の映画)
4.2
 進退窮まった戦場。傷病、飢餓、死の行軍。必要に迫られれば、平時に持つ他者への思いやりなどは捨ててしまえる。むしろ感傷は足かせとなる。肺を病んだ主人公が迷惑をかけるくらいなら死ねと小隊を追い出されて物語が始まるのもそう。それはイジメでも何でもない。傷病兵に突きつけられる現実である。徴兵され、連れてこられた異国の密林で、動けないなら死ね。余りにも勝手な話だが、もはや人間が状況を作るのではなく、状況が人間を取捨している。
 物語は常に欠乏とともにある。野戦病院では空きが無いから追い出される。芋が無いから盗み出す。煙草と芋を交換する。寂しいから誰かと話をする。塩のおかげで受け入れられる。食料が無いから猿を撃つ。
 飽食の現代で叫ばれる欠乏は、やれ愛だの、やれ心の余裕だの、精神的なものばかり。育児放棄されて餓死した赤ん坊の気持ちを我々は知らない。戦場で生にしがみつく兵士の気持ちを我々は知らない。
 銃で満たされるのは己の身の安全だが、それは時に”必要”を越えた凶器となる。殺傷は神の御名のもとに行われるのではない。また、「俘虜記」のエピグラム「わがこころのよくて、ころさぬにはあらず」(歎異抄)に続くのは「また害せじとおもうとも、百人千人をころすこともあるべし」。教会でフィリピン女性の命を奪った主人公にとっての銃は、同じ過ちを繰り返さないためにも自ら手放されるべきものだった。しかし、状況がそれを許さず、彼は再び銃を手にすることになる。
 大筋は原作に忠実だが、映画はまた別ものである。小説では手記という形式の手前、語り手はどこまでも饒舌であり、心情の機微の一つとて取り逃がそうとしない。しかし、映画では彼の見る光景そのものが目に飛び込んでくる以上、田村一等兵は観客の視点として寡黙にジャングルをさまよい続ける。透徹とした文体が狂気に歪んでいく様は、地獄のような光景を目の当たりにする我々の胸のざわめきとして再現される。
 生きているのに死んでいる。亡霊のうごめく密林での挨拶は人間か死肉かを見極めるノッキングに過ぎない。感傷など入り込む隙間もない極限。それでも寸前のところで。いや、すでに一線を越えながら、ある種の因縁を断ち切れない人間の(これをなんと呼ぼう)弱さ?愚かさ?尊さ?愛おしさ?何物にも判じがたい情念。
 武器を持てばどうなるのか。敵と味方をどう分けるのか。極限で問われるヒューマニズム。ただ、状況が人間を追いつめる。
「欠乏のあるところに「事実」がある。」
 事実だけが常に正しく、重要であり、感情移入などするべくもない。87分。一瞬に感じるか、長大に感じるか。どちらにせよ見る者の心に深い爪痕を残すであろう。恐竜も巨人もいない夏のミラクル映像体験。