シャチ状球体

ゴンドラのシャチ状球体のネタバレレビュー・内容・結末

ゴンドラ(1987年製作の映画)
4.8

このレビューはネタバレを含みます

高層ビルを舐め回すように映すカメラ。まるで人間がビルの迷宮に閉じ込められているよう。そしてゴンドラから見下ろす街並みは、海の底を眺めているようだ。都会と海はさほど変わりがないのかもしれない。この世界全体が迷宮で、人間一人一人が見えない壁で覆われているような。

レストランで食事を楽しむ外国人カップルとガラスひとつ挟んで、変わってしまう世界。そこに見えているのにたどり着けない世界。断絶。
病院のドアから鳥の死体を持った医師が出てくる。ガラス戸越しに両親の喧嘩を眺める。本作に登場する"空間"は、監獄のようだ。家、病院、街、海、風呂、店、病院。全てが一つの、奥行きの無い"場所"として描かれている。そして、それらは人間を縛り付ける巨大な牢獄。
一見それと対比になっているかのような海の描写だが、この映画は田舎を美しいものとしては描かない。都会には都会の、田舎には田舎の息苦しさがあるのだ。
「まだ早いのに暗いんだね」「東京みたいに街灯がないからさ」
上記の台詞の通り、都会と田舎の違いは明るいか暗いかしかない。良いも悪いも、自分の置かれた"場所ではなく、環境によって変化していく"のだ。
「なんでみんないなくなっちゃうのかなあ」「生きちゃいけないからさ、ここにいても」「じゃあ昔は?」
場所=土地が自分のアイデンティティと切り離されていく時代。このシーンは後半の伏線になっている。

良の田舎に行く後半では、前半では牢獄的な描かれ方をしていた"場所"(田舎という意味ではなく、土地という概念)が好意的に描写されることになる。廃棄物からチーコ(鳥)の墓を作ったり、川で泳いだり。これは、良にとっての"土地と自分が分裂した"ことを示している。
そして、良はかつての父親と同じように舟を作る。
自分のアイデンティティは場所=土地に帰属するものではなく、それとは独立したものであることを良は知る。それが「どんど晴れ」であり、これからの時間を自分の足で泳いでいくかのように、海の上で船を漕ぐことなのだ。この光景を見た良の父は泣く。自分が成し得なかったこと、得られなかったものを息子が手に入れたのだと理解したのだ。居場所とは見つけるものではなく、作っていくもの。
良と同じ舟に乗るかがりもまた、幼いながらも"自分とは何か"ということを考えているかもしれない。

かがりの弾く音程の狂ったピアノは、かがり自身の叫びだ。行き場の無い、しかし如実に心の中に渦巻く感情。
プール後に眼を洗うシーンで、かがりだけ他の人から急かされない="いない"ことになっていたり、棒で地面に描く絵を良に「うまいんだねえ」と言われたら、すぐに消してしまったり。これらのことから、良だけではなく、かがりもまた"世界の中の自分という迷宮"に入ってしまっていることが伺える。

劇中で何度も登場する蜘蛛は、母性のメタファー。本来母親から受けるはずの無償の愛を知らないかがりは、"そこにいるのにここにはいない"蜘蛛の姿に理想の母親像を見る。そして、その姿は良の母でもある。良の家の風呂場に現れる蜘蛛は、"この人はお母さんだけど、私のお母さんではない"というかがりの疎外感の顕れではないだろうか。

そんなかがりが良に"連れられて"大海に誘われる。「君はこれから、無限に続く海に身を預けることができるんだよ」と、大自然が彼女に語りかけているよう。良が現在(いま)であるなら、かがりは未来だ。何て美しい映画だろう。

ちょっと深読みしすぎ?
だけど、カットの数だけ色々な考えを頭に浮かばせてくれる映画だった。そして、観た人の数だけ解釈があると思うので、もう一度別の人間になってこの映画を観賞したい。もしくは、二回目の初体験として。
シャチ状球体

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