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キャロルのsoffieのレビュー・感想・評価

キャロル(2015年製作の映画)
3.8
2016年公開

原作 パトリシア・ハイスミス著作の小説
「The Price of Salt」

1950年代のNYが舞台の映画
カメラマンになるためNYに出てきたテレーズ(ルーニー・マーラー)と上流階級の夫人キャロル(ケイト・ブランシェット)との出会いから恋愛関係になりお互いの人生の着地点を見つけるまでの物語。

上流階級生まれのキャロルは、結婚前に幼馴染の女友達と、しばらくの間同性愛の関係にあったが裕福なブルジョワの男性と結婚して幼い娘がいる。

なに不自由無い生活だが、仕事が中心で家族に注意をはらわず、必要なパーティーや食事会の時だけ妻を着飾らせて理想の夫婦のように振る舞う夫。

そんな夫婦の関係に不満を抱くようになり、幼馴染の友達としょっちゅう行動を共にするようになると、夫が女友達に嫉妬しだす。
やがて妻の結婚前の一時の同性愛の相手がその幼馴染だと分かると、夫の嫉妬は爆発して離婚問題にまで発展。

幼い娘の親権を争う事になり、夫婦それぞれ弁護士を雇い、夫は両親の実家で生活、妻は自宅で娘と暮らしている。

娘の親権を離婚後共同親権にしておきたいキャロルは、離婚すると分かっているのに夫の両親の家での食事会やパーティーに妻として出席して世間体を保たねばならない。

キャロルがそんな生活のストレスでまいっていた時、クリスマスの玩具売り場で臨時アルバイトをしているテレーズと出会う。

テレーズは夢を追いかけてNYに出てきたけれど、アルバイトで食いつなぐ日々、ボーイフレンドも出来たし、クリスマスに彼が実家の両親に紹介したいと言ってくれているが、なぜか全く心が動かない。

本当は自分は何をしたいのか?
本当は彼のことを何とも思ってないのか?
自分が持っている物は何も無い、けれど何をしたいのか、何をすればいいのか全くの手探りの状態の時にアルバイトで入った高級百貨店の玩具売り場で背の高い一際美しい女性を見て、目が離せなくなる。

金髪の美しく整えられた髪
陶器のような肌
綺麗にお化粧された端正な美貌
最高級毛皮のロシアンセーブルのロングコートに上品なバッグとハイヒール
娘のためのクリスマスプレゼントのお人形を買いに来たと言いながら、自分が勧めた電車のレールセットを即買いして帰っていった。

その時、カウンターに手袋を忘れて行ったことが、テレーズとキャロルを結び付けて行くきっかけになるのだが…

感想は、キャロルとテレーズが魅力的で目が離せない!素晴らしい映画。
だが…

⤵︎⤵︎⤵︎⤵︎⚠️ネタバレ⚠️⤵︎⤵︎⤵︎⤵︎
⤵︎⤵︎⚠️自己流解釈をしているので不愉快に思う方がいらっしゃるかもしれません、ごめんなさい⚠️⤵︎⤵︎













パトリシア・ハイスミスがこの小説を出版した1950年代、まだまだNYでは人種差別も階級の隔たりもあった時代。
この原作小説はパトリシア・ハイスミスの自伝的小説と言われている、そのため同性愛を取り扱った内容が衝撃的で倫理的に認められない時代だったので著者は別名で出版している。

上流階級の女性は学業を終えたら、同じ上流階級の男性と結婚して良き妻、良き母になるのが当たり前の時代背景。

お客がアルバイトの店員を食事に誘ったり、友達になる事の無かった時代。

映画の中でキャロルの家に招かれたテレーズを見て、突然やって来た夫が
「君はいったい妻とどこで知り合ったんだ!」と詰問して

「彼女は百貨店の店員よ、私の忘れ物を親切に届けてくれたのよ」と言う妻に夫が絶句するシーンは、妻が若い女の子を自宅に招き入れた事より「百貨店の店員をこの家に客として入れたのか!?」という階級的ショックの方が大きかっただろう。

キャロルも大胆な女性だが、テレーズもかなり大胆で好奇心と行動力がある。

全く違う世界に生きている、共通点の無い2人が出会ってお互いを求め合う話で、とても美しいのだが…実は一番最初に観た時から、美しい映画なのにものすごく違和感を感じたのはなぜだったのか…。

もし友達とこの映画について話すなら
「とっても綺麗な映画」と絶賛するのだが、Filmarksのレビューではいつも作品を掘り下げる私…。

どの映画も「なんとなく作った」作品など無い。全て映画会社を通して制作された作品は、製作委員会が立ち上げられ、スポンサーから予算を引き出し、脚本、監督、役者が揃えられて行く。
この映画も映画化すると決まってから公開まで11年を要している。
小説が出版されてから数えると50年以上かかっている。
最初の監督も、テレーズ役のミワ・ワコウシュカも降板して、「ドラゴンタトゥーの女」の撮影が終わったルーニー・マーラーにテレーズ役の話が行き、監督が口説き落とすまで数年かかっている。

それを思うと、私がこの映画に感じた違和感は何なのか、今やLGBTモノの映画が沢山制作される中、なぜこの作品をそこまで苦労して映画化したのかな?と思った。

もし、テレーズ役を「不思議の国のアリス」のミワ・ワコウシュカが演じていたら「指輪物語」の妖精の女王ガラドリエル様と不思議の国のアリスの共演で2人とも背が高くて細くて人間離れした美しさで圧倒されだろう。

ルーニー・マーラーのピアスとタトゥーと革ジャン、刈り上げの「ドラゴンタトゥーの女」からの、どこか地方から出てきた感が抜けない、まだ少女の面影を残した「天使のテレーズ」への変貌は目を見張る変化だ。

美しい物に囲まれて生きてきたキャロルの目に止まり、確かな愛を勝ち取るまでの芯の強さと魅力がルーニー・マーラーの演技にはちゃんと感じられる。

私が気になったのはケイト・ブランシェット演じるキャロルの自分勝手さだ。

自宅に招いておきながら、自分は娘とクリスマスツリーを飾り、なぜかその日はメイドがいなくて初めて来た家でテレーズがお茶の用意をしている。
キャロルはテレーズがピアノを弾き始めるまで自分のしたい事をして、テレーズを放置している。

更に夫が突然やって来てテレーズに酷い態度を取っても、娘を連れて行かれた事がショックで、行きはNYの街中まで車で迎えに来たのに、帰りは自分の家の最寄り駅に送り付けて帰ってしまう、だから列車の中でテレーズは惨めな気分に襲われて泣いている。

その後、キャロルは許しを乞うようにテレーズの家を突然訪ねて、テレーズの欲しがっていた高価なカメラと旅行カバンをプレゼントするが、それも結局は自分がクリスマスに1人になるのが耐えられないからテレーズを旅に誘いたくて旅行カバンを買ったにすぎない。

旅に出たら出たで結局、心が通じあったと思った矢先に何の断りも無くテレーズを置き去りにして自宅に帰ってしまう、それも自分の元恋人の女友達にテレーズを丸投げして。

そしてキャロルがテレーズに書いた手紙の内容が
「これだけは信じてちょうだい
私は貴女のためならなんだってするわ

でも今は
私が貴女に出来ることは
貴女を解放すること

これから私は忙しくなるし
貴女はもっと忙しくなるでしょ

もう二度と連絡は取らない事
貴女ならその事を理解できるはず」

と言う内容。
ちょっと待って、自分の都合しか書いてないよね。😓

色々あって、二人はまた再会する、キャロルがテレーズに手紙を書いたから…。

この物語はキャロルが全ての主導権を常に握っている、なのにキャロルという女性はいつもとても不安定。
目の前に現れた欲しいものは自分の魅力を使って全て手に入れるけれど、しばらくすると「私が求めているものはこれじゃない」と「気付いて」
そして、「あなたは何も悪くない、あなたの望むようにするわ、でも今の私が出来る事はあなたに全て与えて、そしてあなたを解放すること」と言って幼馴染からも夫からも娘からさえも解放されてるのはキャロルの方だ。

そもそも娘の事を何より大切と言いながら、クリスマスのプレゼントをギリギリになって買いに来て、娘の欲しいお人形が売り切れていたけど、売り場の女の子がとっても可愛かった!なのでその女の子が勧める「レールセット」を秒で買った。そして手袋をわざと忘れて帰った。
(テレーズが自分を追いかけて来るように)

(いや、それは考えすぎでしょ!?と自問自答したけど、レズビアン目線でこの時のキャロルを見ると、完全にテレーズを口説いてるし、初対面の相手と繋がりを持つために忘れ物をするのは常套手段な事に気付いてしまった。)
そこからして娘の事を本気で可愛がっているとは思えない。

ケイト・ブランシェットは不安定な美女を演じるのが非常に上手い。

「ブルージャスミン」や「耳に残る君の歌声」などは不安定の極みの役だろう、それ以外は女王様の役だがガラドリエル様にしてもエリザベスにしても、どちらも滅びる事を恐れている役には違いない。

キャロルは一人の人として見た時、恐ろしく自分勝手で悲劇を演じながら全て支配していく、ヤバい人だと今回気付いた。

地方から出てきて、まだ恋愛もしたことが無い向上心のある若いテレーズにとって、いつも自転車に乗っている彼氏と、シルバーのクーペで迎えに来てくれる魅力的な大人の女性。
リッツ・ホテルのメインダイニングで親しい人達と優雅に食事をするキャロルと、友達のアパートに集まって、タバコの煙にまみれながらダンスを踊り、キッチンで立ち話をして、出前の中華を食べながらカウチで隣に彼女を座らせてテレビを観ている元カレ(彼と結婚した姿が想像出来る)

テレーズはキャロルの豊かさに惹かれたのではなく、自分の知らない体験をさせてくれる、知らない世界に住んでいる事に大きな魅力を感じたのだろう。

キャロルの不安定さがあればこそ、二人は出会っている。
「そんな不安定な人辞めておきなよ!」と思うけれど、じゃあ自分の目の前に不安定なケイト・ブランシェットが現れて「愛している」と言われたら…

…秒で落ちるだろう///。

だってケイト・ブランシェットなんだもん、キャロルにはそれほど抗い難い魅力がある、その証拠に幼馴染の女性も、離婚する旦那も結局彼女には逆らえない。
実際、最初にこの映画を観た時、ケイトの美しさに見とれて違和感を覚えた事さえ気にならなかった。

パトリシア・ハイスミスの自伝だから、キャロルは実在した人物だ。

キャロルは完全なレズビアンでは無い。
結婚して、子供も産んでいる。
どちらかというと女性が好きだけど、自分が魅力的であり続けるためなら、相手は男性でも女性でも構わないタイプだろう。

テレーズは今後キャロルと一緒に暮らして行くうちに、完全なレズビアンになる可能性が高い。
一番最初の恋愛があらゆる意味でハイレベルなキャロルが相手では、もしキャロルといつか別れる日が来ても、どんな男性にも魅力は感じないだろうから。

この映画の主題は「不安定さ」
キャロルの不安定さと、テレーズの社会的、人間的未経験から来る不安定さ。

その不安定さが一瞬安定する時
テレーズはキャロルに身も心も落ちている。

キャロルが不安定で自分勝手な美女だとよく理解した上で。

映画はハッピーエンド、だと思っていたが…、今回観た時にキャロルの身勝手さと安定して不安定な振る舞いに気付いた時
ラストシーンのテレーズを見付けた時のキャロルの微笑みが、物凄く恐ろしかった。

逃したかもしれないと思っていた獲物が、自ら罠にはまりに戻って来た喜び。

この映画の原作の題名は
「The Price of Salt」
直訳すると「塩の値段」という、美しい女性同志の恋愛を描いた物語にしては不思議な題名だ。

塩は生きて行くために必要なもの。

キャロルにとって生きて行くのに必要なものは「常に悲劇的に不安定でいるための理由(夫、娘、恋人)」そのお値段はいくらなのだろう。

テレーズにとって必要な物は、将来の目的とその夢を叶える手段。
テレーズは平凡な男と結婚して平凡な家庭の主婦になる気など無い。
彼女が求めるものはもっと大きくて高い所にある、それを自覚しているかいないかで、キャロルとテレーズはお互いの目的が一致している。

美しい恋の物語に身も蓋もない解釈をしてしまったけれど(ごめんなさい!)
今回ラストシーンを見た時、
キャロルの不気味なまでの美しい微笑みと、突然ブチ切る様に終わるエンディングに…。

これは美しく幸福なエンディングの物語ではなく
実は怖い話しだったんだと思った。

でも作者のパトリシア・ハイスミスは、アラン・ドロン主演のあの「太陽がいっぱい」の原作者だ
(「太陽がいっぱい」は「リプリー」でリメイクされている、2つは同じ原作。)
だから、自分のためなら身近な大切な人を利用して殺すことも厭わないソシオパスやサイコパス風味の主人公を美しく、ロマンチックに描くスタイルが彼女の作風。

テレーズはキャロルの餌食では無い、キャロルの事を理解した上で身も心も差し出して、新たな体験と経験に踏み出していく冒険者だ。

キャロルは精神病質者(サイコパス)の特徴を幾つも備えている
・異常に魅力的な外見
・巧みな話術
・常に自分が被害者
・平然と嘘を何度もつく
・他人の痛みを気にしない
・良心の欠如

ケイト・ブランシェットは「ブルー・ジャスミン」でもサイコパス女を演じているが、このキャロルの方が「頭が良い」常に自分の必要な物を周到に手に入れている。


女の恐ろしさは見た目では分からない。

実はカテゴリー「ホラーサスペンスラブストーリー」だったんだ、キャロル怖い…。

でも綺麗。


と思った映画。


パトリシア・ハイスミスは「太陽がいっぱい」で欲しいものを手に入れるためなら殺人も厭わず、更に殺した後その人物に成り代わってのうのうと生活する男性の典型的サイコパスを描いている。
この「キャロル」はその女性版とも取れる作品だと私は思った。
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