磔刑

デッドプールの磔刑のレビュー・感想・評価

デッドプール(2016年製作の映画)
4.3
「ヒーロー映画を観る時ヒーローもまたこちらを見ているのだ」

今作が公開された当時ヒーロー映画ブームが過熱す一方、marvel一強故の既視感。今ひとつ独自性を開拓出来ないFOX。DC?それは何処の三流出版社ですかな?って感じでマンネリ化も深刻だった。
そこに突然として現れた小汚らしく輝く超新星が本作であり、R指定だからこそ表現出来るアウトローヒーローとバイオレンス描写過多のバトルシーン。そして突然放り込むド下ネタ。アメコミヒーローあるあるを揶揄したコメディ要素。第四の壁を越える演出の目新しさ。ありとあらゆる既存のヒーロー映画の概念をぶち壊す作風でヒーロー映画に過食気味だった観客を一瞬にして虜にし、ヒーロー映画が一つのジャンルとして確立した現代だからこそ作られるべくして作られ、ヒットすべくしてヒットした一作だ。

特に評価すべき点はウェイド(ライアン・レイノルズ)がデッドプールになるまでとデッドプールがフランシス(エド・スクライン)を追う二つの時間軸が交差し、物語が進行する構成(語り口)だ。
本作自体が全てのアメコミ映画(特にmcu作品群)のメタファーでありアンチテーゼの役割を担っている。そしてその一括りにアメコミ映画と纏められる作品群の避けられぬ大きな欠点の一つがオリジン(単独一作目)だ。キャラクターや世界観の設定など説明しなければならない事が多く、ヒーローになるまでやヒーローになってからの活躍、ヴィランを倒すまでと守らなければならいお約束も多い。その為、物語の疾走感を減退させるのと同時にヒーローの名前やシリーズを変えてもその既視感という呪縛から解放される事はまずあり得ず、これがアメコミ映画最大の呪いにして欠点と言える。しかし今作はそれを逆手に取るかのようにして“ヒーローになるまで”と“ヒーローになってからの活躍”の二つの要素をクロスさせる事でヒーロー映画に新しい息吹を与えており、特に“ヒーローになるまで”で陥りがちな観客の集中力の減退を可能な限り押されている。これだけでも本作がマンネリ化したジャンルにおける重要性の高さが伺える。
何より今作を時系列通り演出したなら例に漏れず凡庸なオリジンになっている点も皮肉が効いており、より一層本作の完成度の高さとその意義深さが伺える。

勿論本作はヒーロー映画だけではなくコメディ映画としての完成度も高い。以下特に笑えるシーンベスト6
6位コロッサスのゲロ。
5位ユニコーンの走馬灯。
4位スーパーヒーロー着地。
3位整形後のウェイドと初めて会ったウィーゼル(T・J・ミラー)とのやり取り。
2位玉突き事故。
1位ハイウェイ上でのコロッサスとのやり取り。
破天荒ヒーローのデッドプールと堅物常識人であるコロッサスの温度差が特にバランス良く感じられる。コロッサスの人物像はステレオタイプのヒーローそのものであり、観客視点のヒーロー映画のご都合主義あるあるをデッドプールが突っ込む形式がシニカルで良く出来ている。(逆に言えばそれ程観客がアメコミ映画に飽きているとも言えるのだが)特に「カナダ!!」が笑える。そもそも身内(ヒーロー)同士の押し問答が一番の見所の時点で相当歪んだ作品ではある。
あとネガソニック・ティーンエイジ・ウォーヘッド(ブリアナ・ヒルデブランド)を言い負かした時のデッドプールの皮肉が完璧過ぎて惚れる。あんなん中高生とのレスバトル最強兵器ですやん。

ただ今作はヒーロー映画には相応しくない程に予算が少なく、その悪影響が少なからず見えているのが残念だ。
ちょいちょい見せる背景の弱さは目を瞑るとしてもヴィランの魅力の低さは看過し難い。人物像としての魅力は十分に演出出来ているのだがスーパーヴィランとしてのビジュアル的説得力が不足しており、対決するデッドプールの強さや対立する葛藤としての役割が相対的に弱くなってしまっている。フランシス、エンジェル(ジーナ・カラーノ)のどちらもどっからどう見たって只の運動神経の良い人間止まりだし、彼らのヴィランとしての強さの説得力が“スーパーヒーローであるデッドプールに対抗できている視覚的演出”に由来しており、それは一言で言えば“デッドプールの存在に強く依存している”と言える。ヒーローとヴィラン、陽と陰相互に作用し合う存在としては明らかに欠陥だと言わざるを得ない。
ネガソニックも立ってるだけで存在感を放つ程の魅力だし、若手起用のキャスティングが見事に成功している。しかし肝心のX-MENのユニフォームがダサ過ぎる!!あんな格好させるぐらいならコート羽織ったままの方が良かっただろ!!そもそもX-MENシリーズは例外なくユニフォームダサい。この点だけはDCを見習ってもらいたい。真面目な話FOX製作のヒーロー映画がパッとしないのはビシュアルの弱さが少なからずあり、皮肉にも今作のヒットは逆に思い切ってデッドプールのデザインを原作通りにした事が功を奏している。

本作を代表する要素の一つであるデッドプールが第四の壁を越える演出があるのだが、これが効果的に演出できているかと言うと少し疑問に感じる。第四の壁を越える事自体は原作通りなのでデッドプールのキャラクターを知っている人ならすぐに飲み込めるだろう。だが本作の演出がさりげなさ過ぎて初見の人にはちょっとわかり難いんじゃないかと感じ、何ならデッドプールの独り言に見えなくもない。それは作品内で初めて第四の壁に干渉する場面(カメラにガムが付くシーン)に集約されており、ちょっと踏み込みが甘かった様に感じる。実際カメラに付いているのかタクシーの窓ガラスに付いているのかが判断し難い。
また、第四の壁を越えている事の分かり難さに拍車を掛けてるのがウェイドとデッドプールの描き分けの甘さも大きく起因している。デッドプールも他のアメコミヒーローと同じく人格の二面性を表しており、ウェイドとデッドプールは同一人物ではあるが別人でもある。しかし本作ではデッドプールとウェイドとのキャラクター性の違いや変化が感じ難く、それが“デッドプールだから第四の壁を越えれる”説得力を奪ってしまっている。実際あの描き方だとウェイドでも第四壁を越えれる様にも感じられるし、それだとデッドプールの存在意義、ウェイドがデッドプールに変身する意味自体が揺らぐ事になる危うさを感じる。
オリジン特有のドラマパートの弱さをライアン・レイノルズのキャラクター性で演出に緩急をつけてかったのだろうが逆に人とヒーローの緩急が緩くなりそれが悪く働いてしまっている。

ウェイドの人物像にも一つ文句を言うならあの性格で顔が歪になったぐらいで落ち込むのはモノの考え方に一貫性が欠ける気がする。ウェイドもヴァネッサ(モリーナ・ヴァッカリン)も笑い飛ばしそうな気がするのだが?まぁ陽キャ特有の歪んだ価値観を表しているのだと勝手に納得させてはいるが。あえて深読みするならウェイドはミュータント化した事を気にしているとも取れる。X-MENシリーズでは少数派のミュータントは人間に迫害されてる背景があるので一応はX-MENシリーズとリンクしているので世界観を共有している事を示唆している可能性は僅かながらある。

細かい点を結構ツッコミはしたがそれを差し引きしても非常に好感が持てる作品に変わりはない。何より本作を分類するならコメディ映画なのだから「細けぇ事は気にすんな!!」の精神で観た方が遥かに楽しめる。ただ本作はスタンダードなアメコミ映画を知っている人がメタ的な目線で楽しむ事を前提で作られてるのでアメコミに疎い人が面白さを見出せるかどうかは疑問ではある。
完成度の高い作品だが他のアメコミ映画の成功や存在に強く依存している風刺的作風なので完璧とは言い難い点も『デッドプール』らしいと言える。
磔刑

磔刑