ピンクマン

セッションのピンクマンのレビュー・感想・評価

セッション(2014年製作の映画)
5.0
この映画のラストはフレッチャーと主人公がジャズの演奏を通じて分かり合うというオチが用意されている。だが実際は主人公がフレッチャーを演奏テクニックをもって彼の演奏の場を蹂躙し、フレッチャーを才能でもってひれ伏さしているだけなのだ。

主人公の演奏はあくまで独りよがり。その証拠に観客は一切映らず、この素晴らしい演奏に対しての「評価」「反応」は映画内では表現されない。他の奏者とのセッション性も非常に希薄。当然にグルーヴ感のような高揚感も得られない。それは主人公の演奏行為がただの男と男の対決の結果でしかなく、復讐の道具としてでしかジャズを見てないからなのである。

映画で主人公一族が会食をするシーンがある。大学での活躍を嬉しそうに語るいとこ達は主人公アンドリューに対して、「どうせ音楽なんて人それぞれの評価なんだろ。でもフットボールの試合には明確な勝負があり、数字で結果が出る」と言われ馬鹿にされる。「人それぞれ」なんて評価基準は負け犬だろうが認められる温い世界の住人の慰めでしかなく、敗北者の言い訳も同じだと一蹴されるのだ。ジャズは勝ち負けがない世界だと言われてアンドリューは反論する。「どうせお前らだってプロにはなれない。自己満足はお前たちの方だ!」と。

これがこの映画の全てを語っているといい。

アンドリューは最後の演奏で「勝つ」。しかし、それは観衆による万雷の拍手によって迎え入れられる世間的評価の獲得などではなく、フレッチャーただ1人への勝利である。ゆえに実利はない。映画的にいくらでもアンドリューを幸福にするラストに出来たのにもかかわらず、監督は一切の他者の共感性を排除する。優しい父親も、好きだった彼女も、観衆もだ。全てを犠牲にして得られた最も無意味な勝利。しかし、この無意味さこそが究極の自己満足の姿なのではないだろうか?

だって、たった一人の理解者が、自分を全否定してきた敵なのだから。

これほど純度の深い馴れ合い全否定の実力世界があっただろうか?彼らは互いに偉大な音楽家とは、決して「人それぞれ」で語るべきではないということを知っている。「人それぞれ」というのが甘い毒であることを知っている。音楽は感性のみで語れられる生易しいものではなく、才能がない無能たちにとっては(主人公とフレッチャー)、何もかもを犠牲にせねば到達できないのだという厳しい現実感の持ち主たちなのだ。

たった一つの成功の裏には何万という犠牲があり、たった一人の成功によって、その犠牲が初めて意味があるものになる。犠牲は犠牲だけでは意味がなく、成功もまた、ただ成功するというだけでは大した意味を持たない。その道のりの険しさだけが成功を「偉大」という言葉に置き換えることが出来る唯一の手段なのだと思う。

この映画は音楽映画ではない。男と男の真剣勝負を描いた作品で、音楽は単なる手段でしかない。ゆえにアンドリューの勝利は音楽的なものではない。しかし、それでも最後の演奏に息を呑むのは、それが人としての正しさを微塵も感じさせないのにもかかわらず、あまりも美しいからではないだろうか。あくまで競争原理の中で勝ち残ることに至上の価値を持つ、強烈すぎる価値観。それが爆発するラストに心の底から感動した。

報われなくてもいいのだ。

成功者である必要もない。

ただ今があればいいという叫びこそが、人の心の奥底に届くのだと思う。

映画史に残る傑作。
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