タマル

セッションのタマルのレビュー・感想・評価

セッション(2014年製作の映画)
3.9
95844人目の『セッション』評。
以下、レビュー。


文学「部」という学部が大学に誕生してから、100年と少し経ちます。その変遷において、常に中心に置かれた問題はすなわち

文学にはどんな価値があるか??

というものでした。
結論を言ってしまうと、実はまだその答えは出ていません。いや、正確には、今出ているような答えも、明日にはひっくり返っているかもしれないということです。
文学の価値は流動的で、その時代の価値観やイデオロギーによって常に変化します。もし文学に固定された価値を与えられるならば、逆説的に「大学で学部として認められていること」をおいて他にはないのです。
そして、このような価値の関係性は、現代の「芸術」一般における傾向だと言えるでしょう。
もちろん、音楽も例外でなく。

ここまで本作と直接関係ない文学の基本的立場を書いてきたのには、実は理由があります。私が本作を読み解くうえで、最も注視すべきと感じたのが、主人公の父・ジムが「物書き」という芸術家の側面を持つ点だからです。この「物書き」という単語は「作家」以外に「評論家」の意味も含みますが、評論は言語に対するメタ言語形式である、という観点から、70年代以降、文学界では「評論」と「創作」に明確な区別はありません。よって、どちらにしてもジムは、息子が目指す「表現者」や「芸術家」の領域に位置するものと考えるべきです。

ここで一度、『セッション』の前提条件を確認してみたいと思います。

⑴ 本作はほぼニーマンに寄り沿った撮影がされており、すなわち作品で描かれる世界はニーマンの認識範囲の世界であるということ。

⑵ニーマンはシェイファー音楽学校というある種「特殊な」空間へ参入していること。彼の場合は同時に、社会座標における「自分」からの逃亡も含意していること。

⑶ニーマンの言う「偉大さ」には実体がないこと。彼の「偉大さ」に価値を与えるのは、シェイファーという社会的権威であること。

⑵⑶から分かる通り、ニーマンの目指す「偉大さ」はシェイファーという場所と不可分です。この「偉大さ」は「社会的優位性」と言い換えてもいいのかもしれません。
ついで、⑴について考えてみます。
ニーマンから見た父親ジムと、教授フレッチャー像です。

ジム
→情けない、へりくだっている、安定、保護者、権威のない指導者

フレッチャー
→強靭、威圧的、上昇志向、強制力、権威のある指導者

もちろん、これらは⑴の条件通り、“事実”ではありません(ジムのみの視点で描かれたシーンがあったなら、もっと違う印象でしょう)。
むしろ、描写の量の比重も含めて、ニーマンの意識の流れに強く影響されたものと考えられます。このイメージを見る限り、ニーマンの目指す「偉大な表現者」像と父ジムの「偉大でない表現者」像はまさに対極といえるでしょう。つまり、作中では

①父親(反偉大)を忌避する
②反父親(偉大)を強く求める

という、二点の操作が同時並行して行われていたのです。


話を「偉大さ」の定義に戻しましょう。「偉大さ」=「社会的優位性」だとするならば、ニーマンがジャズに固執する理由はなんでしょう?
例えば、作中であげられたジョン・レノンやポール・マッカートニーだって、時代を作ったミュージシャンであり、「社会的優位性」という面では申しぶんないはずです。

なぜジャズなのか?
ジャズにどんな価値を見出しているのか??

それを突き止めるには、物語が始まる前、つまり、シェイファーに入学する以前を考えなければならないでしょう。
それを知る手がかりは一つしかありません。
しかし、この一つがその証左に他なりません。

すなわち、幼児期のニーマンがドラムを叩いている映像こそが、彼がジャズを選んだ決定的瞬間なのです。

ドラムをなぜ叩いたのか?
そして、そのあとなぜドラムを好きになったのか?
あの映像は誰が撮ったのか?
そもそもドラムを誰が用意したのか?
その後のCDは? ポスターは?
音楽的土壌は誰が仕入れたのか?
根本的にシェイファーに入学できたのはなぜなのか?

それら全てが父・ジムに繋がることを注意しなくてはなりません。
ニーマンには友達がいないのだから、彼の音楽的嗜好を肯定し、助長してくれる存在は唯一、彼の父だけです。

ニーマンは最後の最後で、彼の音楽には永遠に社会的評価が下されないことを決定づけられてしまいます。それはこの物語の前提条件が全てが不能になってしまったことを意味します。物語に沿うならば、学校のくだりで描かれるように、
社会的認可が得られない=音楽を止める
という、悲劇を繰り返して映画は終わっていくはずです。
しかし、それでも彼を音楽へ向かわせるものがあるとするならば、ジャズ音楽への愛情=物語で描かれなかった父親との潜在的関係に他ならないのです。

衝撃のラスト9分14秒。
そこには、教師vs生徒という物語上の解決と共に、ニーマンの内にある父親的vs反父親的心情の和解をも描き出されているのです。
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