武倉悠樹

セッションの武倉悠樹のレビュー・感想・評価

セッション(2014年製作の映画)
4.5
 いつまで経っても、この作品が突きつけてきたものへの答えが出せそうにないので、とりあえず、現時点で思ってる事を書く。

 音楽の狂気に魅入られた男が、その狂気をぶつけられる相手を探して彷徨う話。その狂気の向こう側に、その境地に至ったものにしか見えない世界、奏でられない音がどうやらあるらしい。
 
 凡人には想像の及ばない、何かが通じ合っているらしい、二人の音楽の狂人を描いていて、それが良いとか悪いとか、そう言う物を明示的に問うて来てるわけではない。ジャズをテーマにしているだけあって、黒を基調とした画面、楽器と奏者と汗と音だけの世界をリズムに合わせて切り替えていて、スタイリッシュさはとても伝わってくる。

 さて、高みに登るための指導に暴力は許されるのか。これを見てから、ずっとそれを考えていた。
 今の所の結論としては、断じて許されない、になるかな。
 たとえ、結果的にアンドリューが、フレッチャーの言っていた、そしてアンドリュー自身もそこへ行くことを望んでいた高みへと到達出来ていたとしてもだ。

 フレッチャーは曰く。そこで、上出来だと褒めても、第二のサッチモは生まれない、と。
 確かにそうなのかもしれない。少なくとも劇中では、フレッチャーの指導は花開いたのだから。
 それでも、認められないのは、あの指導の陰に、彼からの暴力によって、心を傷つけられた人間がいるからだ。音楽を止めてしまったものが居るからだ。自ら命を絶ってしまったものが居るからだ。
 フレッチャーにしてみれば、成功する奴は成功する。失敗した奴はそれまでの奴だったと言う事になるだろう。そんな生存者バイアスで、人をすり潰していくのは、そんなものは指導ではなく、単なる暴力による間引きに過ぎない。
 それをしなければ、偉大な音楽家など生まれないと言うなら、我々人類は音楽と言う文化から、そのレベルの偉大な存在を諦めるべきだろう。

 絶滅に瀕した動物を前にして、これを殺さなければ美味しい料理が食べれないと言う時に、その美味しい料理は偉大な文化なのだから、その動物を殺して料理を食べるべきだと言うだろうか。
 古代のコロッセオで、人が人を殺していた享楽。あの享楽に、他の文化では味わえない至高の悦楽があるのだとして、では、今の時代に人に人を殺させる娯楽を復活させるだろうか。
 そんなものを、我々の気づいてきた文明と理性は許してはいけない。ルイ・アームストロングの奏でる音色が、バディ・リッチの刻むリズムが、生贄を捧げなければ得られない物なら、諦めるべきだ。それよりも、不当な抑圧、理不尽な暴力によって苦しむ人々を一人でも減らす努力に文化の力を傾けるべきだ。

 生贄を出さずに得られる程度の音楽が今我々に聴くことを許されている音楽なのであり、そこに狂気を感じられなくとも、それは致し方ない事なのだと思う。そんなことをつらつらと考えた。
 この考えが絶対的に正しいとも実は思ってないのだけれども、今の時点ではこれが限界。
武倉悠樹

武倉悠樹