まりぃくりすてぃ

シーリーンのまりぃくりすてぃのレビュー・感想・評価

シーリーン(2008年製作の映画)
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ジョン・レノンの Tomorrow Never Knows と Revolution9 と Mother を三曲とも「無条件に傑作!」と見なせない人は、ロック好きやビートルズ好きを名乗るのは全然よいがレノンのコアファンを自認する資格はほぼない。そしてジョン・コルトレーンの Om を拒絶する人は、ジャズ愛好者でありつづけることはもちろんできるがコルトレーン信者としては弱すぎる。(以上、人類芸術史において重要な “二大ジョンの公理”。)
それと同じだ。人道的奇術師アッバス・キアロスタミのこの『Shirin』を美味しく美味しく頂くことは、キアロスタミの本質的理解者であろうとする時の “奥の間” への金色の扉となる。
そうなのだ、ここらへんからキアロスタミはいよいよ後期に入る。(物の見方の)上級者以外には本当の良さがわからない(とともに、彼本人もイラン人映画監督として地球を股にかけた彷徨を余儀なくされていった)ハードな時期だ。

予備知識① 王子ホスローと美女シーリーンの悲恋を描いたペルシャ語文学の古典ロマンス最大叙事詩『ホスローとシーリーン』の存在

キアロスタミのこの映画は、「映画『ホスローとシーリーン』を観客席で観てる女性たち、の顔ばかりを、約一時間半にわたって映しつづける!」という作品だ。そのあいだに上映されている映画そのもの(スクリーン)は一度も映されない。音声だけがずっと聞こえてる。
それだけでも、びっくりできる。好悪は人それぞれ。退屈したかどうかを言う自由が私たちにある。キアロスタミならこういう実験作をいっぱい作りかねない、彼だから許される遊戯みたいなもの、と何人かは云うだろう。次々映る百十四人の女性たちの多くはペルシャ美人(昔美人ふくむ)だ。眼福だから見飽きなかったりする?

予備知識② 90年代末の時点でキアロスタミは「私は女性が大好きですが、女性はいつも私の映画から逃げていってしまいます。一番好きなのに女性を、自分の映画には入れにくい」と語ってる。イラン当局のレッドゾーン多すぎの検閲もあり、女性描きの不毛は彼の泣きどころだった。若い頃から熱烈なソフィア・ローレンのファンだったキアロスタミにとって、映画作りにおける女性レスは女性コンプレックスに等しいぐらいのストレスだったはず。

で、本作は突如の、女優撮影カンブリア! 女優さんがどこに何人入ってくるかとかじゃなく、全編にわたって女性しか映ってないのだ。(よくよく探せば、女性観客の背後に一人二人の男性観客が映る時間帯が総計数十秒程度はある。女性飽きした目には、意外に彼らのヒゲづらとかが嬉しい。)
てことで、イランで逮捕されかねないぐらいのことを本作はやっちゃってるよ。
filmarksのデータでは出演女優の名が三つしかないけど、その三人が特に主演格ってわけじゃない。国際的に有名だからかな? 1:13′50頃から泣きそうになっていくのが、ニキ・キャリミ(人気女優であるとともに2005年のカンヌのある視点部門に監督作『One Night』がノミネートされた)。1:24′05頃にゴルシフテ・ファラハニ(米国映画『パターソン』の妻役といえば皆わかる)。フランスのジュリエット・ビノシュは32′38頃や56′33頃などに登場。ほかにもいっぱいいっぱい女優さんが出てくる。泣いたり驚いたり顎やヘジャブに手をやったり。マナーの成ってない者はいないよ。そういうのはキアロスタミが嫌ってるからね。ポップコーン食べる人やケータイいじりや鼻ほじはないよ。

てことで、ひたすらに、映画鑑賞者を私たちが観賞。。。。
??

だが! じつは! 「スクリーンで上映されてる映画」なんてありはしないのだ!!! そこは映画館内じゃなく、スタジオにほんのいくつかの座席が設けられていただけなのだ。女優たちは、実際にはキアロスタミの指示でほほえんだり没入してるふりしたり、はたまた「自分自身のいろんなことを思い出して感極まってみて」みたいなことをキアロに言われてめいめいが自分のペースで泣いたりしてるのだ。音声さえも聞かされてない。そもそも、イラン人なら誰でも知ってる物語に、今さらイラン女性らが次々に泣かされるなんてちょっとありにくいでしょ。
どういうこと?
ここがポイント。イランには、『ホスローとシーリーン』の映画なんて、そもそも存在してないのだ。(仮に存在したとしても、革命前に作られたメロドラマ映画の上映許可は下りないし、革命後には濃厚メロドラマ作りはほぼ、ご法度。)インドやパキスタンが作った『ホスローとシーリーン』ならいくつか実在するけど、それらのどれかにペルシャ語吹き替えを当てたわけでもない。つまり、あたかもこの作品の中で「上映されてます」と銘打たれてる「その映画」の、台本・声・効果音・主題歌、すべてキアロスタミたちがこの作品のためにこしらえあげて編集で付加したものなのだ。わざわざだ。
ワザ師! 奇術師! フェイクの王!
ここで思い出すのが『クローズアップ』。あの最高作でキアロスタミは魔術超えをやった。動機は、映画愛だ。奇をてらったわけじゃない。じゃあ、この『シーリーン(☜甘美な味、という意味の女性名)』でやったことは何?
『ホスローとシーリーン』は、今から約千年前のアゼルバイジャンのニザーミー・ギャンジャヴィーとその妻がペルシャの民族叙事詩を「世界一甘美なロマンスだから」と恋愛要素強調して書き直した「恋し合う二人がすれちがってすれちがってナカナカ結ばれない、最高に面白い悲恋話」なんだけど、その肝はといえば、ヒロインのシーリーンが男に媚びず毅然として(しかも自分自身に正直という意味で開放的で)、美女でありながら男前な生き方を貫いた人だってこと!
そしてこの映画で、中盤、次々と “女性観客” たちが泣く直前には、男女の会話で女性の側が「もっとハッキリ言ってよ」「満足を得るための言い訳だわ」「男って、子供っぽい。彼らは、彼らのゲームに屈しないオモチャを壊してしまう」等々、毅然とした台詞を連ねる。(ラストではもっともっと泣かせる。)
キアロスタミは、女性解放の進まぬイランで、99%女性の顔ばかりを撮り、女性に真顔させ、泣かせ、神妙にさせ、また泣かせ、エンドロールで総勢何十人もの女優の名を「観客たち」として並べてみせた。
そこにある気概は、『クローズアップ』のラストシークエンスとどう違うか? 似てないだろうか?
キアロスタミ自身の思いの前進をまるで記録したこの映画は、一見、美女好きな人たちを美女の見本市として娯しませるための退屈なような前衛的実験精神過多なような不思議作にすぎないようなエゴイスティック作なようでいて、じつのところ、彼なりのイラン女性たちへのエールだったと私は思う。

でも、……まったく退屈しなかったかというと、、、そりゃ、ツラいことはツラい。冒頭で尊大なこと書いたが、私はべつにキアロスタミのファンではない。でも、キアロスタミには借りがある。はるか昔に『クローズアップ』に貫かれてからの借りが。
奇しくも、Revoluthion9 の頃にレノンは「これからの音楽は、楽器なんて弾けない人でも作れるものになってゆくんだ」と本気らしく弁舌してたそうで、『そして人生はつづく』の少し後にキアロスタミも「素人でも映画は撮れる、ということを私は証明してきたことになる」と語ってたそうだ。

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