山本

ブラック・ハッカーの山本のレビュー・感想・評価

ブラック・ハッカー(2014年製作の映画)
3.8
すべてのカット割りがPCのウィンドウの切り替えによって行われるという斬新な映画。キャプチャ動画を加工したような仕上がりになっている。そのPCの持ち主である主人公の様子はハッキングされたウェブカメラの映像がウィンドウに表示されることによって示される。

シナリオはともかく、表現の仕方が今風でおもしろいなーと思った!

……などという簡単な感想で終わるのもつまらないので、もう少し展開してみる。

ラカン派精神分析によれば、主体は想像的同一化と象徴的同一化の二重性に担保される。前者は私たちが映画の世界を見ることに、後者はカメラが映画の世界を見ることにそれぞれ対応している。一方で私たちは映画の世界に素朴に没入し、感動する(想像的同一化)。しかし他方では、その映画の世界がカメラによって撮影された虚構であるということもまた認識している(象徴的同一化)。その2つの同一化の差異こそが、「何かに見られているということを意識しながら見る」という人間的なふるまいを要請するのだ。

ところがPCができて以来、思想的にはポストモダン以来、私たちは世界を裏側から照射する存在、つまりカメラの存在を失ってしまった。それは端的に、PC上のディスプレイに映るイメージはカメラによって撮られたわけではないという事実から確認できる。実際にはそれは無数のバイナリコードが裏で変換されることによって映されているわけだが、そんなことは誰も気にしない。つまり私たちはPCの登場以来、ディスプレイの表面の世界に素朴に没入するのみで、その世界が何か大きなもの(大文字の他者)によって投影されているという認識(象徴的同一化)を失ってしまった。

以上がスクリーン→ディスプレイのメディア変化をめぐる思想的な整理になるが、そこで「ブラック・ハッカー」はどのような位置付けになるか。一言でいえば本作はその失われたカメラの存在を再確認させることに成功している。最初に触れたとおり、主人公のディスプレイには様々な場面のライブ映像が流れているのだが、では主人公本人の行動はどのように映画で示されるかというと、本人のPCのウェブカメラがハッキングされてディスプレイに表示されている。つまり主人公は、一方で自分が見られているということを視覚的に意識しつつ(象徴的同一化)、他方で別のウィンドウに映る映像をモニターし続ける(想像的同一化)。複数のウィンドウを並列して表示するというPC特有の機能+ウェブカメラのハッキングは、新たな主体のあり方を示唆しているようにも思える。

メディアの特性に注目するとこの作品はいろんなことを考えることができる。長くなりそうなのでここで切るが、他にも論点はたくさんある。
山本

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