もっちゃん

シビル・ウォー/キャプテン・アメリカのもっちゃんのネタバレレビュー・内容・結末

4.5

このレビューはネタバレを含みます

『アベンジャーズAOU』の対戦が終わり、初めてメンバーが相対するのが今作であるが、もはやフェーズ3に入り、マーベルも新たな境地に達しているようである。ここからはもう初期のようにただ純粋に楽しみながら作品を楽しむというのはできないかもしれない。

とはいっても今作にも計算されつくした「娯楽性」がしっかりと散りばめられている。そこらへんはさすが『ウィンターソルジャー』のルッソ兄弟といったところか。WSにおいて特殊攻撃(アイアンマンのビームみたいな)なしでもどれだけかっこよく戦闘シーンを演出できるかを証明したルッソ兄弟であったが、今作ではそれをはるかに凌駕するクオリティを発揮してくれた。

もちろんヒーローが総動員する飛行場のシーンはアベンジャーズシリーズのジョス・ウェドン監督も顔負けの「コンボ技」、個々のヒーローを最大限に活用しながら繰り広げるシームレスな画面構成などは今までのMCUの総括のようで見ていて爽快である。

しかし、やはりルッソ兄弟の持ち味は「市街戦」と純粋な「格闘」にあることはWSで証明されていた。ゆえに冒頭のクロスボーンとの戦闘は地味であるが「彼らが帰ってきた!」と胸滾るシークエンスであり、まさしく冒頭にふさわしい。さらにその芸術的な格闘シーンはバッキーとブラパンの「追いかけっこ」のシーンで最高潮に達する。何もカッコいいバイクに乗っているわけでも、スポーツカーに乗っているわけでもなくただただ純粋に「脚で走る」という原始的なシーンなのだが、ここは逆に全く地味ではなくむしろ原始的であるがゆえにリアリティが生まれ、なお引き込まれるのだ。

と、ここまで今作のエンターテイメント性、とりわけアクションシーンについて述べてきたが、今作の意義はそれだけでは決してない。そう、今作のテーマが「正義」の根本を問うものであることはもはや周知のことだろう。アメコミヒーローものを一つのジャンル映画として一躍有名にした記念碑的作品である『ダークナイト』から「絶対的な悪」というものはないということが基本的な命題になっているが、そのテーマを今作ではさらに推し進めているのである。

「絶対的な悪」が存在しないのであれば、もちろん「絶対的な正義」なども存在しない。「我こそが正義」という人間ほどその心は欺瞞に満ちていることはもはや自明なのである。今作においても公開前から「キャップ派」と「アイアンマン派」に分かれるファンがいたが、どちらが正しいということはもちろん断言できない。答えはどっちの正義も欺瞞に満ちている、だ。

今作における「ソコヴィア協定」なるものを理解するにはヒーローたちを「核」に例えるとわかりやすい。核は保有しているだけで抑止力になるし、いざとなれば兵器にもなる便利なものである。しかし彼らが核と決定的に異なるのは自ら行動し、コントロールが効かないということである。さらに核の脅威から敵のさらなる武装を正当化してしまいかねない。そんな「動く核弾頭」をどうすればよいか。そこで考案されたのが「ソコヴィア協定」なのである。

もはやヒーローが自らの政治信条、情熱、義務だけによって慈善活動を行えばよい安穏とした時代は終わった。それはもう30年も前から『ウォッチメン』で予言されていたことである。「誰が見張りを見張るのか?」そんな問いは今も解決されずに浮遊している。

そしてそんな「ソコヴィア協定」の問題と今作でもう一つ複雑なテーマになっているのがバッキーの問題である。バッキーの問題が複雑に絡み合うことでスタークも引くに引けない状態に追い込まれ関係が深刻化したのだ。「ソコヴィア協定」だけなら内戦に発展するような事態には至らなかっただろうが。

そういった意味では今作で唯一「転向」を果たしたナターシャは最もクレーバーで冷静であったといえるだろう。彼女は最初はスターク派に属していたが(ソコヴィア協定に関して信条が合致したため)、のちにこれは協定とは関係のないところに発展しそうになっているということを察知して素早く事態の鎮静のためにキャップ派に転向したのだ。彼女の選択はおそらくこの状況下では一番「正解」であった。しかしその英断もむなしくウォーマシンの不慮の事故がスタークの逆鱗に触れてしまい、スパイ呼ばわりされてしまうのだが。しかし、そういう意味では私は今作では「ナターシャ派」になるのかもしれない。

いずれにしろ、アメコミはその時代背景を取り込みながら発展してきた。今作におけるテーマも9.11以降のアメリカの軍事的・政治的失墜から起こる問題提起だろう。「世界の警察」として軍事介入を正当化してきたアメリカはこの事件を決定的な発端として国内外から「欺瞞」を指摘されるようになる。それを作品に暗示させながら読者・観客に問うているのである。

そして時代背景を取り入れた部分で決定的だったのが、今作のヴィランの存在である。今作のヴィランはほとんど存在感がないほど影が薄かった。超人的ヒーローを内部から崩壊させるほどのヴィランがどれほどの「超人」なのだろうと思ったら、あの中で一番「人間」だったのである。この「ヴィランの存在の希薄化」という現象は今作を画期的な作品と位置付ける要因の一つである。

これはつまり現代の「戦争の個人化」を象徴しているのである。現代では以前までの国家vs国家の戦争はもはや時代遅れとなっている。今ではたとえ一人であっても(インターネットの発展、テロリズムの勃興などの要因で)国家を存亡の危機に陥れることができるような時代になっていることは9.11のあの戦慄の映像によって証明された。今作でも一人の非力な人間によっていとも簡単にヒーローたちが争いを始めた。それはもしかしたら圧倒的なヴィランが存在してた時代よりも危険な時代なのかもしれない。

いずれにせよ冒頭で述べた通り、これからのMCUはもう見ていられないほどシビアな世界になってくるかもしれない。一作目から見守ってきたファンからするとこうれは今作も見ていて辛いものがあった。だからだろうか、アントマンやスパイダーマンのような「チャライ」奴らが不可欠になってくるだろう。私も辛くなったらもうそっちのほうに逃げちゃおう。