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キャプテン・マーベルのokomeのレビュー・感想・評価

キャプテン・マーベル(2019年製作の映画)
4.0
「 高く 遠く 速く !」


『キャプテン・アメリカ シビルウォー』あたりで一度、全くついていけなくなったMCU(マーベル・シネマティック・ユニバース)。
基本的に映画は劇場でしか観ないせいで、各関連作品の鑑賞には毎回、公開まで数ヶ月単位のインターバルがありました。その間、色々な設定や人物相関を覚えていられる訳もなく、結果どの作品を観ても中途半端にストーリーを理解出来ないというスパイラルに陥ってしまったのです。

でも、間違いなく面白い事(作品内でも現実のマーケティングでも)が目の前で展開されているのに、それを理解出来ないのは何だか悔しい。
そこで昨年、一念発起して各作品を時系列順に並べたフロチャートを作り、普段殆ど行かないレンタルショップで『インフィニティウォー』までの19作品をまとめ借りして、ヒーローたちとインフィニティストーンの所在をレポートしながら順繰り観終わって現在に至ります。
その結果、まあ当たり前かもしれませんが、こういう結論に達したわけです。



MARVELヤバい。



「世界観を共有して別々の作品を作る」。
「数作揃ったら一つの作品内で集合させる」。
言うのは簡単だけど、これって要は、一作でもコケたら企画全体が総崩れになる甚大なリスクを抱えているわけで、にも関わらず毎回、うるさ型の原作コミックファンも納得させる一定以上のクオリティを保ち続けているのがまずヤバい。

しかもそれを特定のヒットメーカーに頼って独壇場にさせるのではなくて、まず作品の特色ありきで監督を代えていく。
王位継承がテーマのマイティ・ソーにはシェイクスピア戯曲の第一人者ケネス・ブラナー。史上初の黒人ヒーロー、ブラックパンサーには『フルートベール駅で』でその手腕を見込まれた新進気鋭のライアン・クーグラーなど、その大胆ながらも的確な人選、若手の起用にも積極的な懐の深さがヤバい。

結果、監督の個性がそのままヒーローの個性に繋がり、多様性が重視される昨今の価値観にも目配せをしながら、彼らが一堂に会する事で、普通であれば観られないような異種ジャンルの監督たちの共作を疑似体験出来るのも楽しくてヤバい。

そうやって育て上げられた結果、一つ一つが強烈な個性を放ちながらも、当初の予定通り確かに「一つの世界」の物語として密接に結びついたMARVEL作品たち。もはや映画と言うより大河ドラマのような一大コンテンツとして認知される事に成功した今、改めて重要視されるのがその「結びつき」の部分なのでしょう。特にフェイズ3からの作品群は、「もう種撒きの時期は終わった」とばかりにその情報の更新がどんどん行われていくので、最初に述べた通り土台を理解しきれていなかった自分は一度置いてけぼりを喰らってしまったのでした。


でも改めて観直してみると、確かにそれまでの世界観・設定の語り口はこの上なく丁寧で、「判ってもらおう」という工夫がよく見受けられます。
主軸はアイアンマン、キャプテン・アメリカ、マイティ・ソーの〝ビッグ3〟ヒーローたちの物語に併せて3つに分けられており、他のヒーローたちも必ずそのどれかに属すると言う構造となっています。

『アイアンマン』では政府の機関S.H.I.E.L.Dの設立と、後にその機関が発動させる事となる〝アベンジャーズ計画〟の草案を巡る話。
『キャプテン・アメリカ』では〝アベンジャーズ計画〟が発動された後のS.H.I.E.L.Dの運営、その内部で暗躍する敵組織ヒドラを追う話。
『マイティ・ソー』では舞台を宇宙に移し、最重要アイテムであるインフィニティストーンへの言及と、その争奪にまつわる話。

それぞれがお互いに作中で存在を匂わせつつ、要所要所で『アベンジャーズ』として合流する。そして、『アベンジャーズ』で共有した情報はそのまま次のフェイズへと引き継がれていくのです。
その情報を観客側も正確に掴めていればいるほど、後々の作品から受け取れる「知る楽しさ」、「見つける喜び」は格別です。

「ここがこう繋がっていたのか!」
「もしかしてこれはあの作品のあれじゃないか?」

単体作品の枠を超えて、伏線が破綻なく回収されていくその舵取りの巧みさに驚愕しつつ、点と点が繋がっていく快感に存分に浸る事が出来る。また、前述通り作品毎に特色が異なるので、自分好みのジャンルに寄った推しのヒーローも見つけやすい。別の作品でも彼らの存在が見え隠れする事で、ミーハー的な楽しみ方も堪能出来る。そもそも、単独作品としての完成度も極めて高い。
エンターテイメントとして、こんなに充実したコンテンツって他にある?


作品が多すぎて、設定が入り乱れてて判りにくい。かつて自分もそうだったので、そんな批判がある事も理解出来ます。
でも、公開順に、あまり間を置かずに続けて観ていけば十分ついていける程度の配慮はしっかりされていると改めて感じるし、それでも判らなければネットで検索すればものの数分で理解出来る優れた解説だって公式・ファンメイド問わず存在します。
とにかく、ただ口を開けて与えられるものを待つだけじゃなくて、向こうが提供しようとする作品形式へ観客側も歩み寄る姿勢を示せば、極上のご馳走を頂ける可能性だってあるんだぞ!という事を、このMCUに関しては声を大にして言いたい。
ちなみに、自分の一番のお気に入り作品は
『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』。
推しのヒーローはアイアンマン。
一番好きなキャラクターはバッキーです。



……で、前置きがとんでもなく長くなりましたが、翻って『キャプテン・マーベル』。
端的に表現すれば、今作はテトリスで言うところの〝長い棒〟です。
作品同士の結びつきを積み上げて積み上げて、待ちに待った肝心かなめの最後の1ピース。
MCU全体の時間軸から見ても、その時代、そのタイミングでしか有り得ない事件と設定がスコーン!!
と気持ちよく嵌る。
キャプテン・マーベルこと主人公キャロルが記憶を取り戻していくストーリー展開も相まって、作品から得られるアハ体験の快感はこれまでのMARVEL作品でも随一です。
また、個人的には映画そのものの公開時期も良かったと思いました。『インフィニティウォー』で絶望的な力をサノスが見せたからこそ、ただ「エンジンのエネルギーを浴びた」だけの彼女のスーパーパワーがすんなりと受け入れられる。
そりゃ、あの滅茶苦茶な指パッチンパワーの一端が宿っていれば空くらい飛べるだろうし、拳からビームだって出ますよね。

一部で過激なヘイトを生んだと言う今作のテーマ、フェミニズムに関してですが、これも自分はとても好意的に受け取る事が出来ました。
その理由は単純で、作品を通してキャロルというキャラクターを好きになる事が出来たから。
自分がどこまでやれるのか試してみたいという願望を内に秘めた、活力溢れる瞳。実際に一つ一つ危機を脱した時に見せる、嫌味の無い自慢げな笑顔。彼女のヒーローとしての資質は、生来の負けん気の強さにこそあるのだという証拠が、その立ち振る舞いの端々から感じ取る事が出来る。
そして、フューリーや友人のマリアとのやり取りから伺える、強いだけじゃない茶目っ気や優しさも、また人間として魅力的。だからこそ、そんな彼女が発信する「活躍の場を不当に奪うな」というメッセージが真に迫って響くのだと思います。

例えば昨年の『インクレディブル・ファミリー』も同じ事を主張していましたが、あちらはそれがものすごく煩く感じられました。特に抑圧されているようにも見えないキャラクターが、その実態も判らずにただ一方的に権利を主張しても、こちらは「なにを勝手な事言ってるんだ?」としか思えない。
やはり共感出来る個人がいてこそ、その人を苦しめたくないと言う気持ちは生まれる。沢山の個人にそれが連鎖していけば、いつしか「世界を平和にする」という大事を成す事にも繋がるのでしょう。


挫折とは無縁だと言わんばかりの、
何度だって立ち上がるその気概。
お互いの歩み寄りによって得られるものの大きさ、そして共感が生み出す計り知れない力。
それらを教えてくれる彼女自身の魅力でもって、
エンドゲームを制して欲しいと願って止みません。
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