プペ

ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅のプペのレビュー・感想・評価

3.7
子供の頃に夢中で読んだ『ハリー・ポッター』シリーズ。
それらが魅力的だったのは、自分の想像より遥かに広い世界がそこにあったからだと思っている。

魔法の杖、空飛ぶ箒、透明になれるマント…。
空想を現実に落とし込んだ、まさに「ファンタジー」。
とにかくワクワクする物語であることは世界中の人々が知るところだと思う。

年を幾らか重ねた10代の今、様々な環境に触れることで視野が広がり、子供の頃よりは沢山のことを考えられるようになった。
登場人物の行動に疑問を抱くことや、時代背景に懸念を覚えること、現実世界との整合性。
「ファンタジー相手にお前は何を言ってるんだ」と思うかもしれないが、「こんなことはありえない」と、こびり付いた常識が純粋に物語を楽しむ″心″を少しばかり邪魔してくる。
そんな草臥れた私の″心″を、この映画は見事にかっさらって行ってくれた。

第1作目の感動に勝ることができないのは言ってしまえば当然のことで、すでに魔法がどういうものかというのを長年見てきた人たちにとっては、今作は衝撃と感動が薄いかもしれない。
しかし、『ハリー・ポッター』と同じ世界であるのと同時に、違う次元の話でもある。
このリンクの加減や距離感がちょうど良かったと感じた。

ストーリーに関しては、新シリーズの1作目と考えれば可もなく不可もなく、無難といった印象。
ただ、「魔法動物」という要素を大々的に出したことから「ファンタジー」に思う存分浸ることができたし、ドキドキワクワクという言葉では表せないような人間の″心の闇″や″社会の闇″のようなビターな一面も見られ、甘すぎない絶妙な味付けだったと思う。


『ハリー・ポッター』シリーズの原作には、明確なテーマが設定されており、物語中には普遍性のあるメタファーが散りばめられていると私は考える。
本作も、J・Kローリングの脚本作品である以上、そういった政治的なメッセージを読み取る楽しみがあった。

さて、今作のメッセージを一言で表現するなら「移民」だろう。

それは、「魔法生物」と、「マグル」(ノーマジ)と、そして「オブスキュラス」。
人間が得体のしれないものに対して抱く恐怖心や猜疑心は、J・Kローリングが『ハリーポッター』シリーズを通して描いてきたテーマの一つ。
それはほぼ毎学年でハリーが欠かさず抱く孤独感だったり、多くの人が名前を呼ぶことすらできない程の″例のあの人″に対する民衆が抱く恐怖だったりと、印象的な形で描かれている。

実社会でも、私たちは常に集団の中で自分がはみ出していないか、はみ出している奴はいないかと、神経を逆立てている。
でも、そうやって人と人との差異を取り上げて作った″仲間意識″は脆く、誰かを捨象する思想はきっと集団が最終的に一人になるまで続き、永遠と人の心を蝕んでいく。

つまるところ、魔法があろうがなかろうが、どれだけ″力″を持っていようが、人は自分の知識の外にあるものに恐怖を抱くものなのだ。



私は『ハリー・ポッター』も『ファンタスティック・ビースト』も好きである。
好きであるからこそ、今作が「J.K.ローリングの政治宗教プロパガンダ」と評されていることにも納得できてしまう。

作品が好きだからといって、作者の人格や政治信条まで好きにならなければいけない義理もないだろう。
また、作者が嫌いだからといって、作品まで全否定するような無駄な事もしたくない。
ただ少し作品にのめり込めなくなったり、苦笑いする事が増えたのも事実。

移民・難民の問題について具体的な解決策を示すことなく、ただ「多様性は素晴らしい」「寛容な社会は素晴らしい」という中身のない漠然とした理想論ばかりだから反吐がでるのだ。


いつからこんな擦れた人間になってしまったのだろう、と溜息が漏れる。

もちろん端から映画の「メッセージ性」を先取りしようと″作品″に対して斜めから映画を観たならば、わりとすぐに作者の意図を汲み取ってしまうかもしれない。
ただそういう観方は、彼らの魔法を観るにしても、映画を観るにしても、「無粋」というものだ。
勘ぐること自体は結構だと思うけれど、娯楽として真っ当に楽しみたいのであれば、きちんと真っ正面から観て、気持ちよく「アクシオ!」されることも大切だと思う。

と、自分に言い聞かせた。
プペ

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