【わるい手】
チェコアニメの巨人、イジー・トルンカ、1965年の遺作短編。
端正に作り込まれ、やがて凄みに至るパペットアニメ。今ではちょっと説明的で説教くさくも映るが、久しぶりに見たら、現代だからこそだろう、面白さ恐ろしさも感じられました。
一輪の花を咲かせるのが夢で、部屋で独り、その鉢を手作りして暮らす道化師。決して“真っ暗な”外には出ようとしないが、外から巨大な手が侵入し、“手”を作れ!と強要する…
素の可愛らしさで引き込んだ後、パペットが小さいからこその恐怖が、終盤に炸裂する。大画面で見るほど、ミクロな被写体のマクロなコワさが、引き伸ばされて迫るでしょうね。
社会主義の国で創作を続けたトルンカだから、一次的には、支配の手は圧政を指しているとは思えますが、私はそれより、画面外の視野まで含め、広がる恐怖に凄みをおぼえます。
支配の手はパペットではなく、実物の手が演じる。画面外から割り込むように強引に。が、この存在感が、映画の登場人物を振り回す作者か、求める観客のように思えてくるのです。
映画に出る人物は、観客の望むように面白く生きて、死ななければいけない。特に娯楽映画であるほどに、その幸不幸の振幅は極端になることでしょう。
いわば、神の手。しかし、映画内の人物にとって、それは悪魔の手かもしれない…。
この点に気づいたら身につまされたし、改めて映画って残酷だなあ…とも思ったのでした。
よく練られているので、支配の構造には様々な投影ができますね。檻も出て、ペットと飼主のようでもあるし、最後の儀式などは、子供の人形遊びにも映ります…ハードコアなやつ。
映画そのものより、画面から外へ、一気に広がる感染感がおそろしい。そういう映画…しかも短編…を最後に作ってしまったトルンカは、やっぱり巨人だったのだと思いました。
そもそも、手、そのものに様々な意味を見いだせますが。
そして、主人公が道化師という仕掛けもみごと、狙い通りに響いてまいります。
<2023.3.14記>