サラミ山カルパス

怒りのサラミ山カルパスのネタバレレビュー・内容・結末

怒り(2016年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

「分かろうとしない人にはさ、いくら説明したって伝わらないから」

約3年ぶりの鑑賞。
本当は明日観る予定だったけど、『楽園』があまりに期待はずれで急遽観ることに。やっぱりこの作品は格が違う。

まず、掴みの事件のインパクトが凄い。茹だるような蒸し暑さがビンビン伝わってくる現場に禍々しい「怒」の血文字。一瞬でグッと引き込まれる。

そこからは千葉、東京、沖縄という3つの舞台に分かれて、人間の「信じる力」と「疑う力」が試されていく。「信じられなかった」と「信じてしまった」。2つの後悔から生まれる自分への「怒り」が人を一回り成長させ、大切なものに気づかせ、生きる力を与える。

気になる点があるとすれば、酩酊した辰哉の歩くスピードが速すぎて不自然なことくらいかな。セグウェイに乗ってるレベル。

映像、脚本、演技、音楽。その総合力で現代邦画の最高傑作だと思う。


ー田中についての考察ー

初めて観たときは田中の怒りの矛先がわかりにくく、田中のことをただ単にサイコパス的なヤバい奴くらいにしか思わなかったけど、今回また観たらその考えが大きく変わった。まあでもやっぱりカッとなると我を失うヤバい奴ではあるんだけど、急に凶暴性を発揮しだした理由は実はそんな単純ではないんじゃないかと感じた。

田中は辰哉と同様、米兵にレイプされていた泉のことを助けたかったけど怖くて助けられなかった(「ポリース!」と叫ぶのが精一杯だった)のが本当で、あの一見すると整合性のない旅館での破壊行為の理由は「あの晩何もできなかった自分への怒り」が辰哉に打ち明けたことで噴出し、抑えられなくなってしまったからではないだろうか。

また、「自己の矛盾に対する怒り」もあると思う。八王子夫婦殺害事件の犯人である自分が、他人の悲しみに共感してしまっている。泉をレイプした米兵と同じ穴の狢である自分が、その米兵に怒りを覚えてしまっている。つまり、「加害者側にいる自分と被害者側にいる自分が同時に存在している」ことになる。

そしてその解決法は、「過去の自分に戻り矛盾を解消する」か、「現在の自分のまま矛盾を受け入れる」かしかない。でも、後者を選ぶと事件を起こした自分と泉を助けられなかった自分への大きな怒りを抱えて生きなければならない。対して、前者を選べば嘲笑の対象である哀れな人間のリストに泉と辰哉を追加すればいいだけ。そして、田中は前者を選んだ。2人との関係をなかったことにしてでも、自分を守ろうとした。2人を怒らせてでも、自分への怒りを捨てることを選んだ。

そもそも、泉と辰哉はそのリストに載るような人間ではなかったはず。自分を見下してくるわけでも、憐れんでくるわけでも、しょうもないことで怒っているわけでもなかった。懐いてくれた。慕ってくれた。信じてくれた。大量のチラシに書き殴っていたような内容と、壁を削って書いた内容の性質は全く違う。無理やり一緒くたにしたのではないだろうか。

そう考えると、最後の田中の言葉は自分に言い聞かせているようにも聞こえる。

「だって、だって自殺とかされちゃったらさあ…そしたら…そしたらウケんじゃん」
「お前だってただビビって見てただけだろ?」
「ウケる。お前マジウケるわ」
「同情するフリなんてなあ、いらねえんだよ」

突然、壁の怒の文字をハサミでなぞり始めたのも、また自分への怒りを抑えられなくなったからだろう。そして、辰哉のことを抱きしめたときの辛そうな表情と、「辰哉、俺はお前の味方だからさ」という優しいトーンの言葉。

原作では単純なサイコパスとして描かれてるらしいけど、映画の田中からは人間味を感じずにはいられなかった。辰哉が背中を向けているときに田中が流した涙は本物にしか見えない。

他にも、「田中は辰哉に自分を殺すようわざと仕向け、泉と辰哉を精神的に救おうとした」という考察レビューもちらほらあって、それもまたしっくりくるし、もしそうだったらもっと切なくなる。もちろん、原作同様ただのサイコパスかもしれない。いずれにしても、面白い。


ー早川共犯(真犯人?)説ー

そもそも、別件で逮捕された元同僚の早川の証言は真実なのか。急に八王子夫婦殺害事件について話し始め、1年前の事件にもかかわらず、まるで自分が経験したかのように詳細まで鮮明に記憶している。派遣会社から酷い仕打ちを受けたことを話すときには感情さえ露わにするほど。照明の加減で右頬も見えにくいし。もっと言えば、最初と最後で「怒」の筆跡が全く違うし、冒頭で裸の犯人はなぜか明かりのついた部屋に向かっているし。でもそうなるとまた物語の整合性が取れなくなってくるので、これから何度も観返し続ける中で考えていきたい。
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