フジもんだよー

恋人たちのフジもんだよーのレビュー・感想・評価

恋人たち(2015年製作の映画)
5.0
「映画業界へ憧れる数多の学生達の中に、この映画を見たあとでも橋口亮輔と同じ映画製作の土俵に立って勝負を挑もうと思える人は、果たして何人いるのだろうか?」


すごい映画を見た。間違いなく僕の見た今年度邦画ランキング1位である。とりあえず橋口亮輔作品は商業映画デビュー作「二十歳の微熱」から「渚のシンドバッド」、そして「ぐるりのこと」に至るまで、ワークショップの作品を除いた全てのパッケージングされたDVDを見てきた。しかしそれと同時に、今まで個人的にはあまり関心の持てない映画監督でもあった。というのも、日本映画界の鬼才的ポジションにいる一人であることはもちろん知っていて、映画ファンとして作品は見るし、気になる存在ではあるけれど、大変な寡作であることと、僕の大嫌いな同性愛のテーマを色濃く作品に組み込むことが影響してどうしても避けてしまう。
そして今作にも同性愛の苦しむ人物が登場するのだが、今作は同性愛なんか嫌いと言っている次元を越えて心を鷲掴みされ、のめり込んでしまうくらいの映画総体の力がある。では何故それほどの、映画総体の力を感じうるのだろうか?自分自身がいつか映画の作り手の一人になりたいと思っている人間の一人として、作り手側の立場からの演出について思ったこと(ほとんど素晴らしいと思ったことだが)を今から語っていきたい。


①この映画全てに通底するリアルさの実体とは?“ドキュメンタリータッチ≠リアル”

映像表現の基礎は被写体の置かれた環境と被写体そのものの関わりを、具現化した行動及び一連の所作によって表現することである。よって人物の独白と、説明的セリフ。そしてダイナミズム無きドキュメンタリー映像特有のカット割りの単調さ。これらのものは映画において時として作り手と観客双方に嫌われる表現である。しかしこの映画はこれらの映像表現によってのみ構成される。もし、たいていの人間がこれらのみの表現を用いて映像製作を行うとするならば、それは表現を通して一人の人間としての凡庸さ、その人の被写体に対する陳腐なまでの考えの浅はかさを露呈させてしまうだろう。つまり駄作を生み出すことになる。しかし疑問に思う方もいるだろう。独白や説明的セリフは今の映画界に実は溢れている。では映像表現を行い、評価を受ける今の映画界の人間のほとんどは何をしてこの凡庸さと陳腐さから逃げているのか?答えは音楽である。劇中にかかるムーディーな音楽。これを用いて逃げるのだ。
作り手のセンスの一つとされる劇中音楽の選択。「何の音楽を挿入すると効果的か?」この考え方は、作り手の製作した凡庸さと陳腐さに溢れる映像を、観客に「こんな感じなんだよー」といった埋め合わせの補足として音楽を挿入すること、そのものを意味する。それはつまり、映像を見る観客に対して“音楽から映像を読み取れ”といった逆説的パラドックスに満ちた強制的働きかけを行っていることに他ならない。そして作り手は観客に、より映像を見ることに対しての受動的立場を強めていく。すると何が起こるのか?映像を見ることに際して理想的な、作り手と観客の双方向(インタラクティブ)のコミュニケーションの機会を奪うことにつながる。そして観客は考えることをやめる。“それが何なんだよ!”と思う人もいるだろう。これが僕だけでなく、幼い頃からの映画好きの人達が幼少期に親に言われ続けたであろう「映画ばっか見てたらバカになるよ」の根源なのだ。
しかし、この映画は音楽に逃げない。音楽をかけるのは劇中世界において非現実的シーンや空想世界を描く映像内のみのたった2箇所(もしかしたら3箇所)しかない。ではどのようにしてこの作品は一連の凡庸さから抜け出したのか?それは台詞一つ一つが活きているからなのではないか?台詞が活きているという表現自体が平凡であるが、この映画の台詞の言葉はすべて見ている観客への世界観の理解に繋がるような、語りかけではない。特に独白の台詞全てが登場人物自身が自分の抱える内なる問題に対して、語り言い聞かせる、心の深層へのベクトルとその逆のベクトルとしての、誰にも理解されようのない叫びの二つしかない。そして自分は吐き出すことで楽になろうとしない。つまり観客に媚びないセリフなのだ。作り手の人間はこの人達の生活を確実に生きたのだろう。そして他者との会話の中では、伝えたいことだけのストレートかつ短い台詞であるが、台詞一つ一つの言葉は何倍もの意味を含み、想像力を刺激する。ちなみにこの映画の役者の半分は演技が下手である。演技らしい演技をする。それでも伝わるのだ。それは音楽がかからない分余計ストレートに伝わる。そして、この観客に媚びないことそのものが直接のリアルさを生み出すことになっていると確信している。このことがまた他の自主製作映画との格の違い、ブロックバスター映画との一線を課すものの土台ともなっているのではないか?


②群像劇とは何か?

この映画は群像劇である。群像劇の名作と言えば真っ先にロバート・アルトマンの作品群や「クラッシュ」など、沢山の名作を僕は羅列できる。しかしこの映画は他の名作とやはり違う。他の群像劇映画を観ることの醍醐味は神の視点から見た登場人物が、話の進むにつれてジグソーパズルのように繋がり、一つの物語の円環構造を描くことにあると思っている。確かにこの映画にもその側面は確実に存在している。しかし、橋口亮輔はこの醍醐味を観客に味わってもらいたい訳では間違いなくないだろう。では何か?それはおそらく様々な人物から見た一つの世界の多様な見方の存在を知ってもらうことだろう。育った環境の違い、抱える苦悩の深さ。それに対してどのようなアプローチで克服していくのか?この映画の世界観の一つとして「自分と他者が理解しえない世界」というテーマがある。人物たちは共感を絶するような孤独を抱えている。登場人物はそんな人たちと出会い、人それぞれ違う処世術を知り、どのように変化するのか?人物一人一人がどこか平等かつ媚びない作劇によって描かれている分、より強調されて、人生を感じられる。群像劇の意識したことのない良さといったものを体感できてよかった。


③モチーフとして用いられる「水」から見る映画の世界

この映画は随所に水がよく出てくる。橋梁点検を生業とする主人公がいつもいる河川、安藤玉恵の売るいかがわしい飲料水、ババアやカップルの排泄物、潰れた生卵の白身など、あちこちに点在する。間違いなく橋口亮輔が意図的に水をモチーフとして一貫した意味性をこの水に持たせているだろう。見ている時にはこの水の意味は分からなかったが、今考えると、それはおそらく、“人の悪意”“醜いもの”“汚いもの”といったところだろう。しかし、水がこのような意味性を持つとなると、映画の世界の見え方が変わる。ゾッとしてくる。主人公は舟に乗り、醜いもの、汚いもの、人の悪意に満ちた、もはや穢れた河の上で毎日働いているのである。もはや私の中では日本の一風景ではなく、あそこは地獄、冥界のように見えてくる。そう思うと、あるシーンが頭に浮かぶ。通り魔殺人の犯人が精神病によって罪を背負わないことによる怒りから河に突っ走る主人公。このシーン自体がもはや見た時の数倍の迫力によって脳内再生される。こびりつき始める。
実はこの映画は、恐ろしいヴィジュアルを持っている。それほど、緻密な演出が散りばめられている。それは素晴らしいとしか言いようのないものであろう。


④この世には良い馬鹿、悪い馬鹿、タチの悪い馬鹿の三種類いる。

群像劇のくだりでも書いたことだが、この映画の魅力の一つは、一つの世界の違う視点からの多様な見方が提示されることである。しかし、この世界の見方として人物が話す言葉に象徴し示されるものの共通点は、“人はどこかヒトの上に立ちたがる”時に、個人の悪意や醜さ、そしてタチの悪さが現れることだと思った。社会の中でヒトを使う側と使われる側、騙す側と騙される側、加害者と被害者、全てに上下関係、優位側と劣位側といった関係が見てとれる。悪い奴やタチの悪い奴というのは自分の現実を直視せず、正当な方法で自己を生きられない、もしくは現実を正しく見れないことなのだろう。つまり正しく現実を生きられないことを指す。そして、この環境にまみれた良い人間はどうなるか?それは徐々に空っぽな人間となる。つまりこの映画世界は形骸化した環境と精神的空虚の間を彷徨う下流階級の人々とその日本の社会構造が浮き彫りになる世界なのだ。
生の象徴として描かれるはずのセックスはただの形骸化した営みとなり、旦那や家族の会話には意味のない空虚さが漂い、自分と他者のコミュニケーションはいつも行き違いが起こる世界。
しかし、橋口亮輔の真価はこの問題を観客に提起することではなく、こんな汚い世界を生きる方法を描いたことにある。
というのも、どこの国にもいつの時代にも下流階級の人間は沢山おり、前時代はもっと酷い有様であることをしっかりと提示している。そんな中でこの映画が汚い世界を生きる方法として提示したことはただ一つ。「笑っていればいい。笑っていればなんとかなるからさ」ということのみである。私は個人的に「は?」と思った。実はこの映画の欠点ではないが、最後あたりにはわずかに、どこか既視感のある、映画史の培った、ありきたりなコード的表現が含まれる。この笑っていればいいということをふまえたラストのシーンで主人公がとった行動はいたって安っぽい。しかし、とても感動する。それもスゴイ感動が押し寄せる。
何故このありきたりなコード的表現が、このような感動を手繰り寄せることができるのか?ちょっと考えてみた。
もしかしたら、この「笑っていればいい。笑っていればなんとかなるからさ」ということが歴史的、それも世界的な普遍性をもつ、たった一つの解決方法なのではないか?これは僕の考え過ぎかもしれない。確かにあの所作は主人公が能動的に希望を示す唯一のシーンであるから、そのまま感動したでもいい。しかし、僕はある一節の言葉が頭に浮かんだ。アランの「幸福論」の有名な一節である。

「幸福だから笑うのではない。笑うから幸福なのである」

実存的な考え方である。しかし、この映画の人物は実存主義的思考に基づいてどこか行動する人間にのみ希望を与えている。そして、このアランの考え方は何百年の時を経て、世界中で読み続けられている名著の一つでもある。橋口亮輔自身がインタビューで、映画を撮っていない時期に腐りきっていた実体験を基にいくつかエピソードを交えて脚本を書いたと言っている。もしかしたら、橋口本人もこの本に希望を見出したのかもしれない。実は幸福について「幸福=同時代においてヒトより得をする」ような本は巷に溢れていても、「幸せとは何か?」という哲学的問いについての本はそんなに多くない。たぶん一読はしてるだろう。
主人公が抱えた問題、心の奥の深い傷。作中にて簡単に癒すことはせず、与えるのは笑うこと。この笑うということ自体の価値の高さを観客が改めて知らされることに感動がおそらくあるのだろう。

絶対に見るべき映画だと思う。おそらくこれが映画なのだ。




こんな時代である。憂き世を笑いながらウキウキして生きてやろうと思った。