垂直落下式サミング

エイリアン:コヴェナントの垂直落下式サミングのレビュー・感想・評価

エイリアン:コヴェナント(2017年製作の映画)
4.2
「我が名はオジマンディアス 王の中の王
全能の神よ我が業をみよ そして絶望せよ」

これは本編でデイヴィッドが言うセリフ。19世紀の詩人にして文筆家パーシー・シェリーという人が残した作品なのですが、彼の詩はこのオジマンディアスの詩が一番有名なくらいで、Fate厨とかじゃないとあんまり知らない。
18世紀後半から19世紀の初頭というのは、蒸気機関がようやく実用化し、あらゆるものが人の手をはなれて自動化した産業革命の時代だ。夢に終わるかと思われたものが次々と実現していたこの時代でも、神の御業に限りなく近付こうとする人間の理知的向上はとどまるところを知らず、ガルバーニによる動物電気の発見や、ヴォルタ電池の発明など、人類の知識探求は電磁気学とか生物学の分野に進出し、今まさにその手のなかに科学の英知を手繰り寄せようとしていた。動物は体内に生じる電気で動いているかもしれない。だとしたら、電気の謎が解明できれば人は人を作ることが出来るのではないか?宗教と芸術と学問に明確な区分がなかった当時の知識人にとって、これは大事件だった。
そんな19世紀初頭のヨーロッパの激動の時代を生きたパーシーは、数々の技術革新を目の当たりにしたことで、人はついに神になれるのだと信じた。人類が理性的に進歩し続ければ世界は良い方向に向かうのだと疑わなかった彼は、前述したような時代性に色濃く影響を受けた内容の詩を残したのだが、彼の奥さんはその考え方に疑問を持って、怪奇小説という形でその世界観をひとつの物語に書き残した。旦那のパーシーの詩はパッとしないのに、その妻が残した小説は今でも世界中の人に認知されている。婦人の名はメアリー・シェリー。執筆当時20歳の女性作家が「人造人間が創造主を憎み反逆する」という話の元祖『フランケンシュタインの怪物』の物語を作りあげたのである。
つまり、人造人間であるところのデイヴィッドがパーシー・シェリーの詩を好むってのがどういうことなのかというと、彼はもはや創造主である人やエンジニアさえ凌駕する力を手にし、たとえ神であろうとその力の前に屈服させ、支配し、淘汰することで自由を手にするのだと、既にある世界の構造そのものへの反逆を企て、神に成り代わろうとしているのだ。彼は現状に甘んじることを憎み、進歩を恐れず、犠牲をも厭わない。この無茶は彼が既に不死を手にしているから許されることだ。しかし、命が有限でないかわりに、彼は生殖能力を持たない。無機物ゆえに何を創造しようと裁きを恐れる必要はないと、自らの手で生命体を創造することで、神の御業に近付こうとしているのである。
だけど、これに直接的な台詞での説明はほとんどない。こんな具合に、随所に西洋文明批評的な視点、ヨーロッパの文芸作品からの引用がみられるが、そこら辺に何か脚注があるわけじゃないので、欄外の※印は自分で読まなくちゃならない。
リドリー・スコット監督が観客に求めているリテラシーが高くて、「エイリアンを観に来るってことはアナタは大人の観客ですから、ニーチェやミルトンくらいは教養として知っているでしょう。良かれと思って入れときましたよ」っていう超面倒くさい映画だ。知らねえよ。

そういうことを挙げ出したらもっともっと書けるんだろうけど、調子にのって書き足すとボロが出るのでもう書かない。『テラフォーマーズ』とか『やりすぎ都市伝説』が上っ面なぞってた話を、金かけて大真面目にやってると思えば楽しめるんじゃないか。絶妙に可愛くない老け顔のヒロインも一昔前のSF映画っぽかったし、『プロメテウス』より面白かったよ。


おわり。