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パプーシャの黒い瞳のodyssのレビュー・感想・評価

パプーシャの黒い瞳(2013年製作の映画)
4.5
【詩とは何かを問うた希有な映画】

1回見ただけでは全貌がつかめない映画。実際、私も映画館で1度見ただけで、完全に把握できている自信がないのですが、でもこれ、すごい傑作じゃないかと。

どうして傑作かというと、詩および詩作ということを通じて、そもそも芸術とはいったい何かという根源的な問題に挑んでいるからです。つまり、この映画は「詩人」パプーシャの実像を明らかにすることを目的としているのではなく、彼女を通じて「普遍的な価値を持つ詩・詩人というものがあり得るのか」という非常に深い問題にアプローチしているからなのです。

彼女は青年詩人とコンタクトを持つ。彼女の才能を発見した青年は、それを本の形にする。文明化された場所に住んでいる青年にとって、希有な才能を一般読書家の前に明らかにすることは善であり当たり前のことだったのです。

しかし、彼女には当たり前ではなかった。ここがこの映画の最大の鍵なのです。

文字で書かれた「詩」を、公のものとして享受する、これはそもそも当たり前のことなのでしょうか。書いた側が公開することを前提にして綴っているなら、当たり前かも知れません。しかし、ちょっと考えてみれば分かることですが、私人が綴った日記は一般に公開されることを前提としていません。私人の日記は、本来はその人だけのもの。他者が読むべきものではないのです。私人の日記が文字で綴られているから、というだけの理由で印刷して多数の他人に読ませたとしたら、それは暴力行為に等しいということは誰にも分かるはずです。

パプーシャはジプシーの中で育ちました。言葉は、自分のものであると同時に共同体のものでもあった。それをジプシーでない人間に読ませることは、共同体に対する裏切り行為であり、いわば私人の日記を印刷して公開することに等しかったのです。

これは、例えばユダヤ民族の神の名が長らく秘匿されていたことにも通じています。大事なことは言葉にしてはならないし、言葉にしたとしても他人や他民族に明かしてはならないのです。

パプーシャが「私は詩人ではない」と言うとき、それは近代的な、自作を印刷して世に発表するという意味での「詩人」を否定した言い方なのです。そういう「詩人」は広く世界に賞讃されるかも知れない。けれども、そのことによって何か大事なものが失われてしまう。それを彼女は鋭敏に予感していたのでしょう。

この映画はまた、映像によってそうした微妙な事情を表現することに成功している点でも見事な作品になっています。最初は、時代が飛び飛びになったり、必ずしも説明的ではない映像に対してやや首をひねっていた私ですが、後半まで見て、監督なりの周到な計算があるのだなと気づきました。いや、計算という言い方は不当でしょう。パプーシャの詩心と矛盾したあり方とを、監督は言葉ではなく映像でもって表現しようとしているのです。これはよほどの才能に恵まれた人でないとできないことですが、この映画を見ると監督にはパプーシャに匹敵する才能、そして整理された公的な言葉(や映像作法)に対する違和感があるのだと思いました。

「詩」や「詩人」に対する違和感を抱き続けた詩的ジプシー女性のあり方を、映像で表現し得た希有な映画と評すべきでありましょう。
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