Jeffrey

パプーシャの黒い瞳のJeffreyのレビュー・感想・評価

パプーシャの黒い瞳(2013年製作の映画)
5.0
「パプーシャの黒い瞳」

〜最初に一言、超・大傑作。ハリウッド的な、設定と対立と解決の3幕仕立てをあえて破り、エモーショナルな立前と物語が順に解決されていく直線的な構造を避け、混乱するようなストーリー仕立てが圧巻である。2010年から19年の間の10年間のベストテンに選出した圧倒的な映像美と心震える音楽とモノクロームの叙事詩的美しさを描いたジプシー女性詩人の生涯を捉えたクラウゼ監督の遺作にして最高傑作だと思う。心沸き立つ音楽が全編を彩り、今思えばベストテンの中に「イーダ」「COLD WAR あの歌、2つの心」と3本のポーランド映画が入ってる。本作は20世紀のポーランドあるいは東欧が鮮明に描写され、そのことがこの作品に決定的な意味と意義を与えている〜


本作は2014年12月に亡くなった現代ポーランド映画を代表するクシシュトフ・クラウゼ監督の遺作で、公開当時岩波ホールで見る予定だったが、諸事情により見れなく、BDが紀伊国屋から発売され購入して鑑賞したが、あまりの傑作に2010年から19年の間の10年間のベストテンに入れた作品である。映画では激動のポーランド現代史と、実在したジプシー女性詩人パプーシャの生涯が描かれる。わずか15歳で年の離れたジプシー演奏家と結婚したこと、彼女の才能を発見した詩人イェジ・フィツォフスキとの出会いと別れ、古くから伝わるジプシーの秘密を外部に晒したと彼らの社会を追放されたこと…。本作は、1人のジプシー女性の物語であり、同時に第二次世界大戦前後にジプシーたちが直面した史実を伝える。

それはまた、20世紀から21世紀へ、世界が何を得て何を失ったのかを我々に問いかけている作品だと思う。戦前からナチスの時代、そして戦後ポーランドの誕生、半世紀を超えるいくつもの時代を再現したモノクロームの映像は驚くほど美しい。ことに大勢のジプシーが馬車で移動する姿をとらえたロングショットの素晴らしさは言葉に表せない程だ。また、冒頭の歌曲"パプーシャのハープ"に始まり、心を沸き立つジプシー・ミュージックなど、全編を彩る音楽の魅力も圧倒的である。この"言葉を愛したがゆえに、ー族の禁忌を破った女性がいて、書き文字を持たないジプシーのー族に生まれながら、幼い頃から、文字に惹かれて言葉を愛し、心の翼を広げ、詩を詠んだ少女、ブロニスワヴァ・ヴァイス(愛称はパプーシャで、ジプシーの言葉で人形と言う意味)が、やがてジプシー女性として初めての詩人となる迄に起こる、様々な波紋や彼女の人生を大きく変える事柄が2時間11分のモノクロームの映像の中に入り込んでいるのが素晴らしいのである。

今回久々にBDで見返したが、文句のつけどころがないほど美しい。これを"息を呑む美しさ"と言うものだろう。この素晴らしい作品を監督した人物は、日本での劇場公開作は「ニキフォル 知られざる天才画家の肖像」のみだが、99年には「借金」と言う作品と2006年に「救世主広場」でポーランド映画祭グランプリ2度も輝く、ポーランド名匠であることをまずここに伝えたい。その監督の奥さんであるヨアンナ・コス=クラウゼは本作で監督もしており、夫のクシシュトフ・クラウゼは2014年12月24日に61歳で永眠している。早速余談話をすると、この作品を作るに当って、高校時代の先生が彼女の神話や伝説に包まれた物語を教えてもらい、パプーシャのハープと言うオペラがあることを教えてもらって、それを作曲した作曲家に会い物語を語っていく着想を得たらしい。

そしてモノクロームの選択は経済的な事情もあったが、それ以上に、監督の2人が50年代、60年代の写真から多大なインスピレーションを得たことが大きくて、モノクロームの映像なら、物語に確かな感情を与えられると確信したそうだ。そんな中、時代の再現のために、衣装と小道具と大道具は注意深く揃えられたそうだ。中でも大変だったのは当時のジプシーたちが使っていた本物の馬車を用意する事だったそうだ。当時の馬車で現存していたのは、博物館にあるたった二台。制作スタッフが特別な許可を取り、その二台を撮影のために使用したそうだ。プロデューサーのランプロスは様々な問題の中で、当時のジプシーの馬車をロケ地まで運ぶことが最も大きな困難の1つだったと証言していた。その他には、戦後のワルシャワなどをロケだけでは再現不可能な風景のために、監督たちはCGも採用したそうだ。


出来る限り美しい映像を求めるため、永遠に失われた世界を再現したようだ。50年代のポーランドのシュッテトル(ポーランドには多くの都市にユダヤ人共同体シュッテトルがあったが、ナチスによって一掃された)のようにと発言していた。それから年齢を重ねていくメイキャップも大きな問題だったそうだ。最終的にはハリウッドから専門的なスタッフを連れてきて、グリーンバック合成のための第二班も必要になり至るところで予算不足に悩まされたが、ポストプロダクションには十分な予算を立てたみたいだ。これは後ほども話すが、1年間の言葉の勉強も役者はしたそうだ。基本的にポーランドのプロの俳優は3人だけ配置されて、残りはみんなジプシーである。職業俳優ではないジプシーはもちろん純粋なポーランド語を話すのが大変であり、純粋なポーランド人がジプシーの言葉ロマ二語を話すのも大変なことだ。しかしながら、1年間かけて、言葉を学び本作に挑んだそうだ。なんともすごいことである。前置きはこの辺にして、物語を説明していきたいと思う。



さて、物語は1910年。ある小さな町で、1人のジプシー女性が出産した。人形が好きな、まだ若い母親が赤ん坊に人形(パプーシャ)と名付けた。呪術師が、この赤ん坊は恥さらしな人間になるかもしれないと予言した。1971年、刑務所に女性官僚がやってきて、1人のジプシー女性を刑務所から出せと言う大臣の命令を伝える。刑務所を出て車に乗せられ、連れていかれた場所は、ある音楽会だった。クンパニアを組んでジプシーが来る。幌馬車の車輪が音を立てて回る(クンパニアとは馬車を連ねたキャラバンの事)。オペラ歌手が歌う歌曲の、その詩を書いた初めてのジプシー女性詩人、パプーシャの生涯が時間を行きつ戻りつしながら語られる。

1949年。パプーシャの1族のもとに、彼らの楽器の修理を請け負っているポーランド人チャルネツキが、1人のカジョ(よそ者)をワルシャワから連れてきた。男の名はイェジ・フィツォフスキ。作家で詩人だが、秘密警察を殴って追われており、ジプシーに匿ってもらうと言うのだ。パプーシャの夫デオニズィは、男を受け入れるが、パプーシャは悪い予兆を感じる。だが一方で、彼女は男の持っていた本に魅かれた。1921年。少女の頃、泥棒が木の洞に隠した盗品を偶然見つけたパプーシャは、そこにあった紙が気になった。そこには文字が印刷されていた。文字はカジョの呪文。悪魔の力。ジプシーたちはそう忌み嫌ったが、パプーシャは文字に惹かれる心を抑えられなかった。

彼女は町の商店主の女性に読み書きを教えてほしいと頼んだ。ある日、街の酒場で、カジョとジプシーたちの揉め事が起きる。その夜、野営していたジプシーたちの馬車が焼き討ちされてしまう。パプーシャには、それが文字を覚えた自分への天罰だと思われた。1949年。フィツォフスキはジプシーの暮らしに随分と同じんだ。今夜は、デオニズィ率いるジプシーオーケストラの演奏会だ。広場の移動遊園地でパプーシャも楽しいひとときを過ごす。だが演奏会に警察がやってきて、ジプシーの男たちは全員牢屋行きになった。緑の草は風にそよぎ、樫の若木は老木にお辞儀する。パプーシャの口からこぼれた詩に、フィツォフスキは驚いた。

君は詩人だ。詩人って何?歌を作る人のことさ。違うわ、歌を作るのは人魚よ。冬が来て、ジプシーたちはいつものように冬越しの家を借りようと村へやってくる。しかし村人が警察のお達しでジプシーに家は貸せないと言う。過酷な寒さに、クンパニアの馬がまた一頭倒れる。ジプシーたちに悪い知らせが届く。ジプシーを強制的に定住させる政策が施行されたのだ。馬車で旅をしてはならない。子供は学校に行かねばならないと、ジプシーたちは紛糾した。家をくれるならもらえばいいと言う者もいれば、家などいらない、森があれば充分と言う者も。だが、最後に長老がみんなをまとめた。チャルネツキが良い知らせを持ってきた。フィツォフスキの逮捕状が取り下げられたのだ。

だがそれは、パプーシャにはフィツォフスキとの別れを意味する悲しい知らせだ。フィツォフスキは彼女に、詩を書いて自分に送ってくれと万年筆を渡した。パプーシャは彼に幸運が訪れるようにとお守りを渡した。1925年。パプーシャがディオニズィと結婚したのは15歳の時だった。ディオニズィは、パプーシャの義父のー族の男性。遥かに歳が離れている。だが、金持ちの家で演奏した日、彼は少女パプーシャの輝くような美しさに虜になったのど。演奏の稼ぎ、ギターの代金、そして大事な時計を義父に渡し、ディオニズィはパプーシャを妻にした。父なる森よ。大いなる森よ。私を憐れみ、子宮を塞いでください。パプーシャは夫をを拒んだ。


1952年。定住を始めたジプシーたち、とりわけディオニズィは、旅もできず演奏許可証ももらえない毎日に苛立っていた。そんな時、息子のタジャンが病気になる。薬を買う金もなく、彼女がフィツォフスキからもらった万年筆を質に入れて用立てた。ディオニズィは怒りに任せ、狂ったように馬車を打ち壊した。一方、結婚したフィツォフスキは、送られてきたパプーシャの詩を、ポーランド語に翻訳して出版する事を思いつき、大物詩人のユリアン・トゥヴィムに相談する。トゥヴィムは、パプーシャの詩にすぐさま魅了され、フィツォフスキをインタビューして新聞に載せることを計画。目論見は大当たりし、彼女は一躍、ジプシー詩人として大きな注目を集める。

詩の原稿料等全国どこでも返送できる許可証を持って、フィツォフスキがやってきた。詩でお金がもらえるなんて。詩はひとりでに生まれて消えるのに、パプーシャはカジョの考えはわからなかったが、久しぶりに機嫌の良いディオニズィの様子に心が和んだ。パプーシャの詩とフィツォフスキのジプシーの論考を収めた本がもうすぐ出版される。心を踊らせるフィツォフスキに対し、その本は私の心を傷つけない?と不安げなパプーシャ。新聞記事が予想以上の話題を集めた事で、長老に激しく非難されたディオニズィは、なぜ詩などを書いたとパプーシャを責め立てた。傷ついた彼女は、1人ワルシャワまで歩き、フィツォフスキに会いに来た。本を燃やして欲しい。しかし倉庫に山のように積まれた本を見て、自分がしたことの恐ろしさに怯え、正気を失った。

これは呪いだ。自分は報いを受けるのだ。ポーランドのジプシー。フィツォフスキが書いた本は、ジプシーにとっては、彼らの秘密を白日のもとに晒す裏切りだった。パプーシャとディオニズィはジプシーの社会を追放された。フィツォフスキは、全ての罪は自分にあると長老に懇願したが、ジプシーはカジョを罰しないと追い払われた。タジャンは母を恨んだ。タジャンはパプーシャが産んだ子ではなかった。戦争が始まった1939年、パプーシャはナチスに焼き払われた村で赤ん坊の泣き声を聞き、命がけで助けたのだ。精神科病院に、1人でパプーシャを見舞うディオニズィは面会を拒否し、詩は医者に禁じられたと告げた。1971年。パプーシャとふたりきり。誰1人尋ねる人もない家で、ディオニズィは死んだ。葬儀の後にフィツォフスキがやってきた。頭には白いものも見える。パプーシャは、相手がフィツォフスキであると分かっていないような素振りだ。

ワルシャワで暮らしたからどうかい?無理ね、ワルシャワには誰も知った人がいない。まだ詩は生まれているかい?詩を書いたことなど1度もない。パプーシャの拒絶に、立ち去るフィツォフスキ。その後ろ姿にパプーシャが小さく手を振ったの彼は見なかった。はるかなの森へ。ジプシーのクンパニアが行く。そこにパプーシャの詩が、重なり響く。いつだって飢えて、いつだって貧しくて、旅する道は、悲しみに満ちている。尖った石ころが、裸足の足を刺す。弾が飛び交い、耳元に銃声がかすめる。すべてのジプシーよ。私の元へおいで。走っておいで、大きな焚き火が輝く森へ。すべてのものに、陽の光が降り注ぐ森へ。そして私の歌を歌おう。あらゆる場所から、ジプシーが集まってくる。私の言葉を聞き、私の言葉に応えるために…とがっつり説明するとこんな感じで、21世紀の傑作の1本だと思う。

そもそも主人公の詩人パプーシャは馬車で旅するジプシーの一族に生まれた少女が、独学で読み書きを学び、最後には、詩人として百科事典に乗り、その詩がいくつもの言語に訳されることになるのだから凄いなと思うのだ。彼女はポーランドの歴史に影響与えた60人の女性にも数えられている事だし、この驚くべき運命が、叙事詩的映画として語られるべきものであることに疑いを持つ人がいたとしたら滑稽だろう。また、この映画は、ジプシーの世界を観客に紹介し、彼らの尊厳を彼らに返す機会にもなると監督はメッセージしている様に、かつてジプシー文化は興味を持って歓迎される事は稀で、代わりに恐怖と攻撃の感情を呼び起こしだそうだ。フィツォフスキは、ジプシーの人々に新たな光を当て、彼らのより良い理解に貢献し、ジプシーたちは悪魔である、また価値のないものであると決めつけていた偏見に立ち向かった人物だ。

今を生きる我々は、彼の足跡を追って、ジプシー文化の純粋で情熱的な魂を見ることになるし、監督はそれを思う存分見せたいと思っていたはずだ。本作には、パプーシャとフィツォフスキ、ふたりの主要人物のほかに、第3の集団主人公、すなわちジプシーの世界がある。ヨーロッパの風景の中に消えてしまったジプシーたちの暮らしを再構築する事は、監督の5年間に及ぶ映画制作の最大の挑戦だったと思う。この作品の完成がいかほどに重要なのかは、見たものなら分かると思うが、かつてジプシーがいかに暮らしていたか、彼らに強制的な定住政策をとったポーランド共産主義の時代までの80年にわたる歴史を描くと言うことが、いかに向こう見ずだったかに気づくだろう。ジプシーの暮らしに関する資料が非常に少なく、また、戦時中に行われた大虐殺については詳細がほとんど残されていないと監督は言っていた。

戦前のユダヤ文化、そしてホロコーストについては巨大な研究母体があることを考えると、それは大きな悲劇と言えるのだろう。しかし、この映画は何よりも詩を創造すると言うことでコミュニティーの規範を超境し、そのために多大な代償を払った女性の物語で、人生の最後の最後まで、自分自身に忠実であり続ける勇気を持った、偉大なる人物についての物語である。この映画は、監督の過去の作品「ニキフォル」と同様の意味で、伝記的作品ではないが、社会政治的な映画でも、民俗学的な野心を持った映画でもないと思う。想像することの勇気について、それに伴う孤独と痛みについて、さらには報われない愛情について、そして人間の幸福について描いた作品である。


さて、ここからは印象的だった場面を紹介していきたいと思う。まず冒頭の上空撮影で集落全体を捉えるモノクロームのファースト・ショットからこの映画が傑作だとわかる。この中世の村に入り込んだような異様な感覚は何だったんだろうか。あの隊列の勇ましさ、深い森の中の年老いた樹、静止画を見るときの感覚、ワンショット、ワンショットがもはやスチール写真として完成されている。ジプシーたちのコミュニティーが川辺でテント張ってくつろいでいる場面のシーン、あの音楽ホールでの圧倒的なコーラス、特に夜の撮影の工夫と焚き火の火花飛ぶクローズアップとロングショットの使い分けや泥の中を行く馬車の群れ(ジプシーのコミュニティー)の車輪のアップ、鳥が一斉に鳴き声を出して飛び立つワンショットの映像こ美しさ。

過去へ戻ったり現代へ行ったり複数の時代背景が混同されていき、大自然の中を駆け巡るジプシーの少女の成長が伺えて素晴らしい。移動し続けるジプシーたちにポーランドの警官が暴力をふるって、留置所に入れるのだが、彼らの楽器で演奏して嫌がらせする場面など面白い。とにかくこの映画は引きの映像が美しい。池に反射する樹々や移動馬車と人物、木々の間を抜ける固定ショットの神秘的なショットはすごく印象に残る。そしてクライマックスの固定長回しで全体風景を捉える雪景色と圧倒的な「Elżbieta Towarnicka & Orkiestra I Chór Polskiego Radia W KrakowieのKicý Bidy I Bokhá!」の歌声とともに画面の右端からジプシーのコミュニティーが旅を続ける大団円はなんとも余韻が残る。まさに傑作のモノクロームの映画だ。この映画は映像もそうだが音楽も素晴らしいのである。サウンドトラック購入してしまった位だ。

この作品は、女性詩人の伝記映画だけではなく、ジプシーと言う集団の苦難の歴史物語でもなければ、ポーランドと言う東欧の国の過酷な歴史、その影響をまともに受けて存亡の危機にさらされるジプシーと言う民族集団の運命が描かれており、その悲劇の時代はすべて作り手=監督の目、そしてそれと一体化したパプーシャと言う女性詩人の目を通して描かれていくのだ。この映画を観た評論家の土屋好生氏は、過去へ遡ったり、現在へ舞い戻ったり、未来へと足をのばしたり、時空を超えた展開で詩人の内面へと迫っていくと言っており、時を超えたというか、時を詩で語るとゆうか、とにかく詩人の生涯をひたすら詩的に綴っていくのは、不世出の画家の内面を活写した監督の前作に通じるものがあると言っていた。そういえばフィツォフスキを演じていた俳優はワイダ監督の「カティンの森」にも出演していた。

この作品の素晴らしいところは、妙な三角関係がほのめかされているところである。主人公のパプーシャの詩人としての才能を見抜きポーランド語に翻訳した詩集の出版にこぎつけるポーランド人との出会いがそのスクリーンに強い衝撃を与える接吻をするまでの過程が半ば、夫との関係、ジプシー集団の掟に背いたとして長老から糾弾される場面など、それらを大まかにフォーカスするのではなく、あくまでも詩人の目を通して詩人の心で詩的に描いている点が素晴らしいのだ。これによって、未来永劫私の脳裏にはこの詩的表現が焼きつくのだ。そもそも、この作品で表現される非ジプシーの呼称ガジェの文字を理解しようとするパプーシャの末路を見てしまうと何とも切ないのである。しかし、その文字の存在がジプシー集団の生きるか死ぬか、秘密を外部に漏らすか、集団の破滅を招くか、危険を呼び起こしかねない、その文字は呪文であり、悪魔の力であると言うジプシーの言い伝えがある分、彼女は映画の終盤で、読み書きを覚えたことにより幸せはなくなったと口走るのだ。その場面が非常に強く私の心に印象づけた。

こうしたパプーシャの苦悩は始まりを告げ、この文字をめぐる攻防こそポーランドとジプシーの差異を明らかにする戦いになるのだ。それはそのまま文明と言う名のもとに管理された近代国家、自然と言う大きな枠の中で生きてきた民族集団の対立へと至るのだ。だから、ジプシーの話し言葉であるロマニ語を一旦アルファベットに置き換え、さらにそれをポーランド語に翻訳したパプーシャの詩は、ポーランドに生きるジプシーの声なき声、ギリギリの心情を訴えているようで胸に迫るのだろう。このような詩と音楽の競演の中に、もちろんポーランド語がわからないため、映像に浮かび上がる字幕を通してだが、ジプシーの彼女の思いや、先祖から語り継がれたジプシーの魂が脈々と息づいている歌詞を詠むと、世界中に行き場を失った移民や難民が重なって見えてくると思う。この作品はジプシーが監督したのではなく、ポーランド人が監督したのだ。また、ジプシーがこのような作品を作ったら果たしてどういった物語になっていたのだろうか…。


パプーシャの生涯はそのまま激動のポーランド現代史と重なって良いのかもしれない。そもそも彼女が生まれた1910年(1908年とする説もあるようだが)、ポーランドと言う国は存在しなかったのだ。100年以上も昔に周辺3大国によって分割されていたからである。生地ルブリンはロシア領に位置する工業都市だった。第一次世界大戦で3大国は滅亡し、ポーランドは123年ぶりに国家として復活した(1918年)。しかし、政治は安定せず、1926年、クーデターによってピウスツキ元帥の独裁体制が成立。祖国再生にあたり東方領土の獲得に功があった(とされる)英雄だった。パプーシャはこの頃に結婚し、ー族とともに東部一体で移動生活を送っていたと言う。1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻、第二次世界大戦が始まる。戦争中、ユダヤ人に加えてツィゴイナーの根絶を上げたナチスドイツによって、推計50万人以上のジプシーがソ連、東欧、バルカン地方の領土地や戦場、あるいはドイツ内外の強制収容所で殺された。

パプーシャ達は現在の西部ウクライナの森の中を逃げ惑ったと言う。1945年、大戦の終了とともに独立を回復。しかし、米英ソの大国間取引の結果、戦前の東方領土はソ連に合併され、その埋め合わせとしてドイツ東部がポーランドに割譲された。旧東方領土の住民は、パプーシャたちジプシー集団も含めて、長年住み慣れた土地を追われて西部の回復領土に移住させられたのだ。戦後ポーランドにはやがって事実上の共産党独裁体制が樹立される。これに伴って、大企業の国有化、計画経済体制、イデオロギーと統制などソ連型社会主義が導入されたのだ。パプーシャの一族が直面したジプシー定住化政策もその一環だった。社会主義体制は、その後、何度かの政治的危機を経て1980年に連帯運動の登場を迎え、最終的破綻へと向かう。共産党政権は戒厳令を布告して体制の延命を図ったが、叶わず、1989年夏、連帯勢力に政権を明け渡した(連帯を描いたワイダ監督作品がある)。

パプーシャは、社会主義体制の終焉を間近にした1987年、ひっそりと世を去った。ポーランドのジプシーの歴史は古く、最初の足跡は15世紀に遡るとされ、16世紀には西方の神聖ローマ帝国から迫害を逃れて移動してきた集団が定着した。彼らは、ドイツ語の影響の強いジプシー語方言を使い、移動生活を主とし、伝統文化に固執した。パプーシャの集団はこの系統とされるのだ。19世紀になるとバルカン半島方面からカルデラシャと呼ばれる鍛冶、鋳掛屋集団が入ってきて、ジプシー社会の主流を占めた。西洋と同じく、ポーランドでもジプシー追放令が繰り返し制定されたが、大貴族などの支配層はこれを無視して、鍛冶、占い師、学士として彼らを利用した。こうしてジプシーは各地に定着したのだ。ただし、厳しい気候風土のゆえに他の東欧諸国に比べてその数は少なかった。

戦後体制が発足した時点で、ナチスドイツによる大量虐殺もあって、人口比では0.04%ほどに過ぎなかったとされる。社会主義政権はどこでもジプシー対策を重視した。中流社会の周辺部で極貧の生活を送ってきたジプシーを差別と抑圧から解放し、人間らしい生活を保障する。これは社会主義の理想にふさわしい課題だった。しかし実際には、国民生活の徹底した統制を基本とするこの体制は、各地を移動して回る集団の存在が許せなかったのである。このために、ごく少数だったにもかかわらず、移動生活を根絶することがジプシー政策の中心に兼ね備えられた。移動生活こそが貧困の根源であるとされた。こうしてポーランドでも、1952年9月、定住化のための大停止作戦が発動された(映画では1949年8月29日の布告となっているが)。

定住すれば暮らしは楽になるとして、住宅の提供、職業の紹介、子供の就学援助といった対策が実施され、その一方で興行免許や職業規則の取り締まりが強化された。パプーシャの一族はこの頃に西部のジャガンと言う街に定住している。しかし、長年の移動生活に慣れ親しんできたー部のジプシーは定住生活を嫌った。結局、強権が発動されて(1964年)、移動生活は禁止され、違反者は投獄されて、ほぼ全員が定住させられたとのことだ。パプーシャの詩が公刊されて、それがもとでジプシー社会から追放されたのは、まさにこの時代のことである。苦悩のあまり錯乱した彼女は、約8ヶ月を精神科病院で過ごした後、家族とともに西部の都市ゴジュフ・ヴィエルコポルスキに住んだらしく、夫であるディオニズィの死後しばらくして中部の町イノヴツワフに移り、ここで生涯を閉じたとの事だ。

映画のもう1人の主人公イェジ・フィツォフスキ(1924年、2006年)は、戦後ポーランド代表する詩人の1人で、戦争中は対独レジスタンスに加わり、ワルシャワ蜂起にも参加、戦後は硬直化する社会主義体制を批判して反対派運動を抑えるなど、反骨の人でもあった。1948年から50年にかけてジプシー集団に加わり(この時パプーシャを知る)、彼らの生活と文化を理解し、これに深く共鳴した。最初のうち、社会主義の理想に惹かれ、定住化政策にも違和感を持たなかったとされる。ポーランドのジプシー研究にも名を残し、その主著"ポーランドのジプシー"はインド起源説などー時代昔のパラダイムに拠るとはいえ、現在でも参照されるべき重要な研究である。晩年、彼は作者との出会いについて回想している一文もあるようだ。やはり、彼女の悲劇の背後には、主流社会のジプシー社会の間の積年の経済的、社会的、文化的な深い溝に加えて、この事実を直視できなかった硬直した社会主義のイデオロギーがあったと考えていいのかもしれない。

ジプシーと言う呼称については、ヨーロッパ各国社会の周緑部に散在して厳しく差別、迫害されながらも神秘化されてきた多様な少数民族(マイノリティ)集団を指して、主流社会が使ってきた英語による総称である。研究者の人が言っていたのだが、1970年代初めにバルカン半島出身のロマ知識人を中心としたロマ民族主義の運動がロマと言う総称的自称を主張し、主流社会のー部もこれを採用したが、運動そのものは広く共感を得るには至らず、現在でもロマを総称的自称としては受け入れない集団が多い。したがって、総称としては、差別的含意に留意しつつもジプシーと言う語を使うのが適切であると東欧現代史、ジプシー研究の水谷氏が言っていた。今でも識字率が著しく低いジプシーはヨーロッパで貧困と差別の中を500年から600年にわたって生きてきている。昔ロシアのニュースだったか、ロシアで何かサッカーとかやったときのテレビニュースで、ロシアにもジプシーがいるのだが、ジプシーには関わらないようにとアナウンスが日本向けに来ていたのが印象に残った。

それにしてもジプシー社会の中での言葉とはもっぱら話し言葉だったそれらが、ロマニ語の音をポーランド語のアルファベットに置き換えて、独自に工夫して、彼女が見たもの、感覚全てを文字として、それを詩と言う形で表現したのには驚かされる。でも、彼女の詩の才能が評価された瞬間、彼女はジプシーと言う世界の裏切り者と言うレッテルを貼られてしまうのだ。我々にとっては普遍的な文字なのだが、彼らの世界ではそうではないのだ。ジプシーたちが頑なに外部社会に対して秘事として守ってきた習慣が、パプーシャの好奇心のために外部社会に露呈してしまったと考えられるのだ。そもそも現在を生きるポーランド人の多くの人は、この詩人の存在をほとんど知らされていないらしい。ジプシーであって、しかも生涯貧困に苦しみ、格別の注目を浴びることもなく悲劇的な人生を送ったパプーシャの事なんて知る由もなかったのだろう。

だからこの作品が2013年に映画化されたと言うのはきっと革新的だったんだと思う。映画自体過去に遡って撮影しているかのような、ドキュメンタリータッチで、美しい風景、その野原を走るジプシーの幌馬車たち、そして第二次世界大戦下の緊張感が見事に映し出されており、ポーランドの厳しくも美しい原風景と風光明媚な土地柄がスクリーンいっぱいに映り込みその美しさは息を呑むほどである。だが、単に息を飲む美しさで片付けられるような内容でもなければ、この映画監督を含め、大部分のジプシー報告者は非ジプシーであるため、ジプシーの心情をそのまま映像に映す事は非常に難しかったと思う。しかし本作の制作者は史実を厳密に調べたうえで、彼女のジプシーとしての心理を見事に画面に焼つけることに成功したと評価されている。ジプシーであることの運命的不幸やその如何ともしがたい社会的低地の暮らしが、彼らの精神にどのような気持ちを植え付けているのか、をここまで真撃に描き出した映画はかつてなかった。

関口義人氏が言っていたことなのだが、映画の中で語られているのはポーランド訛りのロマニで、俳優たちは1年がかりでこの言葉を学んで、この作品に挑んだと言っていた。それからパプーシャの詩に大勢のポーランド人が感銘を受けたと言う事は事実であり、全編に登場するセリフの多くはポーランド訛りのジプシー語であり、試写会当日に会場にこられていたポーランド人もほとんどの台詞を理解できなかったと述べていたそうだ。基本的にジプシーはあちこちに生活拠点をもっているが、時代背景こそ違え、この映画に描かれている状況のテント生活だったり、貧困、教育の不在、ガジェとの対立等の部分をとっても本質においてはほとんど変化していないんだろうなと思うのだ。やはりこの映画は見る価値があるなと今回3度目の鑑賞したが率直に思った。この映画は時代錯誤な昔話なのではないと言うこともはっきりするし、EUの経済的諸問題やEU内部の格差が顕著になった結果、域内のジプシーたちは再び邪魔者として処遇されたり、ジプシーの国外追放への動きも露わになり始めている。

EUの立場にもそれなりの言い分はあるのだろうが、ジプシーの問題が今やヨーロッパだけではなく世界中に拡散している点だけはこの映画背景と大きく異なったと言える。現在、ジプシーが世界の全ての大陸、近年では南北アメリカにまで急増していることも調べてわかった。世界の厄介事になり始めているからなのかもしれない。狭い地球の領土や主権の争いは世界の至る所で現在も続いているし、こういった自国領土を一切持たず、しかもそれを主張してたいない世界で唯一の民がジプシーだと言うことも理解するべきだと思う。世界の人権意識や良識が彼らを今後、どのように、処遇していくのかをしっかり直視しなくてはならないと思わせられるような映画でもある。ジプシーのみならず戦争難民や経済難民など非常に定位置を確保できない膨大な数の人々を取り巻く問題でもある。国籍によって区分できないマイノリティを世界はどう取り扱っていくのか、これは21世紀が抱える大きな問題だ。

だが、その国々にも多様性(国の多様性)があるし、全てを受け入れる慈悲深さを持つことも困難であることも事実だ。そうした中、この作品が上映されていた時代は、数年前だが、世界を震撼させている過激派組織IS(イスラミックステート)の支配領域(シリア、イラク北部)にも数は多くないがナッワール、クルバットと呼ばれるアラブのジプシー"ドム"の系譜に連なる人々が暮らしていることも事実だ。彼らはその存在すら知られていない(見えざるマイノリティ)であることも、この映画が、ジプシーリテラシー(ジプシー理解)の促進に大きく寄与することを心から切望したいと思う観客は多くいるのではないだろうか。そうなってこそポーランドで詩に人生を託したパプーシャのささやかな願いが叶うのではないだろうかと音楽評論家、ジプシー研究の方々などが積極的に口にしていた事を思い出す。


長々とレビューしたが、最後に、音楽会のシーンのアイディアと最も時間をかけたとされるサウンドトラックについて少しばかり言及したいと思う。この作品は見た人なら分かるが、リアリティにこだわった映画だ。冒頭の音楽会のシーンには監督たちの遊びもあることがわかると思う。刑務所から出されたパプーシャが、自身の詩をオペラ歌手が歌う音楽会に招かれる場面だ。この場面で演奏されるのはパプーシャのハープ。しかし、実際にはこの曲は彼女が亡くなった後の90年代に書かれたものだ。そしてこの場面で指揮者としてタクトを振るのは作曲者の人物で、彼女が独自に生きていた晩年、1974年に、彼女についてのドキュメンタリー映画が作られ、彼女の存在に再び光が当てられたと言う事実があるが、それを音楽会に置き換えて映画化のきっかけを作ったその指揮者を登場させたのは、監督たちのフィクションでその指揮者への感謝の表れだが、見事な導入部になっている。まだ未見の方はお勧めする。
Jeffrey

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