純

みかんの丘の純のレビュー・感想・評価

みかんの丘(2013年製作の映画)
5.0
隣人とは何か。敵とは何か。ひとばかりが増えすぎてしまった世界で、私たちは自分と「同じ」何かを持つひとなら自分を受け入れてくれるはずだと、自分に危害を加えるはずはないと勘違いして、またそんな頼りない希望や幻想を抱いては裏切られ、絶望している。

どんどん裏切られてしまえばいいと思う。どんどん裏切られて、絶望して、自分がどんなに馬鹿げた、自己中心的な、愚かな弱さに負けそうになっているのか、思い知ればいい。そして、そのことは決して悪いことじゃないんだと、不安を抱えながら生きていて当然なんだと、気付けばいい。どうして、相容れないひとたちをその孤独の中に放っておけないのか。どうして、その出会うことのない閉じた世界を無理やりこじ開けて、攻撃しないといけないのか。

映画の舞台は、アブハジアという、ソ連崩壊後にすでに独立を果たしていたグルジアと内戦を繰り広げる地域。『アニメーションの神様、その美しき世界』の1作目「25日、最初の日」でも思ったことだけど、背景知識が乏しすぎて、後々ググらないと知らないという情けなさ。でも、予備知識がなくても作品の時代設定だとか両者の壁だとかは分かりやすくて内容も追いやすかった。(なんて言うと自分を正当化するようだけど)作品中で多民族を自然に登場させている点も、知識のない鑑賞者にとっては親切で、まあ親切かどうかよりも前に、実際のアブハジアが抱える問題をしっかりと描ききっていたと思う。主人公のイヴォもエストニアからの移民で、内戦が激しくなってもなぜかアブハジアに残っているという何やら過去を秘めていそうな思慮深い老人という設定だった。

怪我を負った兵士2人を分け隔てなく助けるイヴォとその友人マルゴスに反して、チェチェン人のアハメドとジョージア人のニカは思いっきり敵対している。命の恩人であるイヴォの言いつけを守って彼の家の中で殺しはしないと約束するものの、2人の間に流れる雰囲気は常に緊迫していた。歴史的なことを言うなら、2人の言い分がそれぞれ違うことが事実として大切なことなんだろう。ジョージア人を悪魔と呼ぶアハメド、教育されていないのだなと軽蔑するニカ、2人は明らかにすれ違っていて、それはきっとどちらの非でもない。2人とも、自分とは違う相手を破壊、排斥の対象、憎むべき敵としか認識できていない。それはそう認識するように生かされてきたからだ。どちらも、自分の生きたいように生きられなかった。それは、作品中で彼らが入隊した事情を吐露するときにも感じられる。

残酷なほど分け隔てられた国と国。その容赦のなさを描きながらも、絶望の淵にそっと希望を添えてくれるのがこの作品だった。私は偉いと思った。アハメドもニカも、生かされてきた過去はあっても、今をきちんと生きているのだ。自分の意志で決められるのだ。お互いを殺したいと思いながらもそれをぐっと堪えていた。恩人の言いつけだから当然だと思うかもしれないけど、それを当然だと思える心が2人にあることが、私は素晴らしいと思う。当時、敵は殺して当然のものだという考えが人々に植えつけられていた。もう、本当に、今では信じられないくらい当たり前に、ひとを殺していた。そうすることが正しいとさえ思われていた。そんな中で、恩人を裏切ることになるから、という至って個人的な、そしてたったひとりの願いのために、国家規模の思想を脇に追いやって、彼らは言葉を交わすのだ。閉ざされた世界にそっと足を踏み入れるのだ。銃も刃物も持たずに。

閉ざされた世界を最初から敵視していたら見えなかったものが、時間をかければ見えてくる。歓迎する必要はない。でも、攻撃する必要はもっとなく、ただ拒否しなければ、私たちはそれぞれの世界で、一緒に孤独でいられるんじゃないか。隣人と敵は何なのか。前者は愛すべきひとで、後者は憎むべきやつなんだろうか。何でそんなに両極端でしかいられないんだよと思う。 別に愛さなくても良いから攻撃だってしなくていいだろって、思う私のほうがおかしいのかな。

皆後ろ盾が、仲間が、恐怖からすくい上げてくれる確かな拠り所がほしい。だからわかりやすい同族意識が高ぶっていく。自分と同じ宗教に属している、自分と同じ人種だ、自分と同じ…。そして逆もしかり。人間、そんな単純に生きていけたらきっともっと楽で、苦しむこともぐんと少なくなるだろう。でも、そうじゃないから私たちは自分が出来損ないの人間じゃなくて、それこそ皆同じ人間なんだって、思えるんじゃないのかって、問いかけたい。同族にすがりたい気持ちはある。異質なものを怖がる気持ちもある。でも、安心できるはずなのに夜も眠れない夜があって、拒まないといけないと思ってるのに愛おしく感じてしまう誰かがいて、そういう矛盾をたくさん抱えて自分の弱さをこれでもかというくらい味わって自分に痛めつけられて、ひとはかけがえのない人生を生きてるんだって、私は思いたい。アハメドもニカも、時間が経つにつれ、自分たちの考え方に疑いを抱き、目の前の昨日までは敵だった人物に「生きてほしい」「助かってほしい」と願うようになってしまった。こいつは何があっても殺さないと気が済まない、なんて気持ちにどうしてなれるのかはこれっぽっちも分からないし分かりたくもないけど、心の底から誰かの無事を願うのに、理由や根拠なんて必要あるんだろうか。理由も根拠もない自分のありのままの正直な気持ちを戦争や人種に邪魔させるなんて、それを許すなんて、本当に馬鹿げたことなんじゃないのか。

アハメドとニカの、それまで出会うことのなかった閉ざされた世界は接点を持ち、長い時間をかけて歩み寄って、慈しむ隣人となった。それでも、それは彼らだけの世界だ。ひととひとは、一方が相手を攻撃しなくても、他方が攻撃してしまえば、何も生まれぬまま死だけが残る。どんなに時間をかけて育ててきた命も、奪われるときは一瞬なのだと、とことん無慈悲な現実を突きつけられる構成だった。

大好きだけど大嫌い。アブハジアの土地をこのではように語ったイヴォの狂おしいほどの愛が、何よりもずっと大切にしてきた思い出が、最後に一気に溢れ出してきた。脚本も作風も静かだし、無駄がなくすっきりしている。それでも語られたこと以上の語られなかった言葉が、思いが、はちきれんばかりに詰まった哀しくて温かい映画に、心からの拍手と感謝の気持ちを送りたい。

今日も、遠く離れたどこかで、全く会ったこともない誰かが、自分の世界とは閉ざされた空間で、同じように息をして、食事をして、涙を流して、生きている。死んでいく。昨日も今日も明日もずっと、「世界は互いに閉じたままで、いまだに出会うことがない」。
純