津次郎

クリミナル・タウンの津次郎のレビュー・感想・評価

クリミナル・タウン(2017年製作の映画)
3.0
映画レビューで「う~ん」という表現が、よく使われています。
この意味は「今、俺様が講評してやるからな、そこに待っておれ」ということです。

「う~ん」とは考え中をあらわす保留の言葉です。
ですが、口語ではなく、またWEB対話でもなく、文なので、考える必要も、保留する必要もありません。
必要がないのに「う~ん」と書いてるわけですから、なんらかの効果を期待しています。

効果とは、まず、不承知の強調です。

「う~ん」と前置きしてから、ほめるってことはあり得ません。
とうぜん、けなすわけですが、そのけなしが「う~ん」を前置きすることで、破壊力を増します。

なぜ破壊力を増すのかというと「う~ん」には、知識があることを、ほのめかす効果があるからです。「俺様は、それを知っておる、だから今、それを言って進ぜよう」という、もったいぶりの「う~ん」です。

自信のあらわれ、でもあります。文において、がんらい必要のない、保留をしているわけですから「俺様はなにもかも解っておるぞ」の気配を醸す効果があります。

その気配が言いたいのは「しかしなあ、君ごときに、俺様の知識を、披露してしまっていいんだろうか」という逡巡の「う~ん」です。

すなわち「う~ん」とは、その後に、不承知/却下/拒絶/辞退がくることが、解っているものの、言葉自体には、なんの意味もないので、ただ単に、それが醸す効果を期待しての、きわめて不遜な前置き──に過ぎません。

ところが「う~ん」の書き手は、おうおうにして、そのすさまじい上から目線と自負心に気づいていません。
まるで、ほんとに考え中で保留しているかのように「う~ん」と書いちゃってるわけです。

いちおう「それについて、一生懸命考えてみたんだよ」の意味を併せ持ちながら、そのじつ、これほど不誠実な言葉はありません。だって、考えていないのですから、書くことも決まっているのですから。
それでも「う~ん」と書いているばあい、意図せずして、書き手は、なみなみならぬ自尊心を露呈しちゃっている──わけです。

あたかも真摯な逡巡のように見える「う~ん」ですが、書き手は、まず一ミリたりとも逡巡してはいません。「う~ん」と前置きしたあと、おもいっきしけなしてやんよと、息巻いているわけです。

もし、そうではない唯一の可能性があるとすれば、書き手がトイレで書いているばあいです。

わたしはトイレで書いてはいませんが、この映画には「う~ん」が言いたくなりました。

ガヴァシは気になる監督でした。とりわけ目立った実績はありませんがヒッチコック(2012)を見て、とても気になる監督になりました。他に目立ったところではスピルバーグのターミナルを書いています。知っているのはそのぐらいです。

ヒッチコックはトリフォーの『定本映画術ヒッチコック』を思わせました。映画監督が監督したというより、研究者が監督したという雰囲気がありました。

今では誰もが知っていますが、アルフレッドヒッチコックというひとは、ヒッチコック劇場にでてくる、ユーモラスで穏健な太っちょ──ではありませんでした。
とても神経質で、自作の評価にたいして敏感で、他の映画や映画人に、なみなみならぬ野心や敵意を持っていました。

ハワードホークス(ハワードヒューズだったかもしれません)が、アルフレッドヒッチコックを寸評したことば「いいやつだけどパーティーに呼びたいやつじゃない」は有名ですが、その人間性を映画ヒッチコックはほとんどはじめて映像化していたと思います。だからガヴァシが気になったのです。
またJoseph Stefanoの描き方も的を射ていました。

誰もが知っているサイコですが、サイコのストーリーって、覚えていますか?
何億人ものひとびとを感嘆せしめたサイコですが、ストーリーを知っている、あるいは覚えているひとは、ほとんどいないはずです。たいてい「サイコにストーリーなんてあったっけ?」となるはずです。
そのサイコを書いたのがJoseph Stefanoです。
かれは当時ハリウッドに星の数ほど群がっている三流作家のひとりでした。

当時、ヒッチコックはクルーゾーの悪魔のような女の絶賛に歯がみしていました。白目をつけたポールムーリスが風呂場から起き上がり、ヴェラクルーゾーがけいれんしながら死ぬシーンです。それは世界中を怖がらせたシーンでした。谷崎潤一郎のエッセイにもその感想が語られています。

真相は知るよしもありませんが、ヒッチコックはおそらく「じゃあいいさ、ストーリーなんかいらねえよ、描写だけで、怖がらせてやるさ」と燃えたはずです。それがサイコです。だから、わざわざライターを山っ気なJoseph Stefanoに振ったのです。

ところがJoseph Stefanoはたしかに三流作家だったものの、本質を知っている作家でした。それがガヴァシがヒッチコックで描いたJoseph Stefanoの登場シーンです。ベストキッド以来かもしれないラルフマッチオが演じていました。かれはほぼそのワンシーンだけです。ただし、強烈なJoseph Stefanoでした。

かれはこういいます。
Just the usual.Sex, rage, my mother.
「つきなみですが、セックス、怒り、母親ってところですかねえ」

セックス、怒り、母親。それがサイコの全ストーリーです。三語で語られていないものはひとつもありません。あとは描写だけでした。そして、セックス怒り母親は、その後のホラー映画の基調因子になってしまうのです。

そんな研究者から見たヒッチコック像がヒッチコックにはありました。が、確かに考えすぎの映画でした。口をとがらせるホプキンスが気になるとはいえ、ヒッチコックはいい映画でしたが、傑作になる要素をもった映画だったにもかかわらず、考えすぎだったのです。それでガヴァシが気になったのです。

が、ここでは映画研究者らしい考えすぎがほとんど裏目に出てしまっています。原作を知らないのですが、諸処のPOV表現は、意味がありません。破綻しないのはさすがにアンセルエルゴートですが、かれの行動理念に、理解が追いつきません。進学と9cmの書き込み欄しかない願書、また母親の死が象徴になりえていません。デヴィッドストラザーンとキャサリンキーナーの超演技派が用立ちしません。モレッツは添え物のようなポジションです。

めったにう~ん裁定をしない主義ですが、これはたしかにう~んだったと思います。
ただし、どこかに、化けたかもしれない気配がありました。挿入される点景などは、かんぜんに玄人のものでした。
Every Secret Thing(2014)のスベり方によく似ていました。映画監督としての力量はあるんだけどスベりまくった、という感じ。
ちなみに、言わなくてもいいことですが、力量があるけどスベった──の気配は、日本映画ではぜったいに見ることができません。
津次郎

津次郎