みかんぼうや

奇跡のひと マリーとマルグリットのみかんぼうやのレビュー・感想・評価

4.0
【不安、恐怖、警戒心でこわばったマリーの掌は、いつしか優しさ、愛、信頼に溢れた優しい掌になっていた。決して二番煎じではない、もう一つの“奇跡の人”の物語。】

サリバン先生とヘレン・ケラーを描く元祖「奇跡の人」(アーサー・ペン監督)は、フィルマの私のベストムービーランキングのとおり、人生でも3本の指に入るほど素晴らしいと思った映画。それほどの映画と同じタイトルを敢えてとっているが故に、登場人物も異なり比較する必要はないと分かりつつも、期待よりも不安が先行してしまうのは、先に観た「奇跡の人」の二番煎じに見えないだろうかという思いがあったからです。

しかし、そんな不安は杞憂に過ぎませんでした。

前半こそ、元祖「奇跡の人」のオマージュともとれる、悪く言えば既視感の強い、耳も目も不自由なマリーの怪物的な描かれ方と指導役のマルグリットとの全身と全身でぶつかり取っ組み合う“格闘シーン”が目立ち、やはり二番煎じ的な部分がどうしても気になってしまいました。

が、元祖「奇跡の人」のクライマックスであり最大の山場でもあるヘレン・ケラーが言葉という概念を覚えるくだりは、本作では決してクライマックスではないことが分かります。いや、それどころか本作の本当の魅力は、むしろその言葉という概念を知った後から現れるのです。そう、言葉を覚えた後のマリーとマルグリットの深い絆の描写こそが本作の核であり、それまでの格闘の過程はその絆を描くためのお膳立てに過ぎなかったのです。

元祖「奇跡の人」は、サリバン先生とヘレン・ケラーの日々の格闘の中でヘレン・ケラーが言葉という概念を覚え、それまで長い間閉じ込められた静寂と闇の世界から解放され、今まで触れることができなかった新しい世界の広がりとこれからの人生の可能性に対するヘレン・ケラーの喜びと、そこに導くまで最後まで諦めなかったサリバン先生の揺るがぬ信念と熱量こそに我々は感動し涙させられるわけです。ですが、実はこの2人がそれを通じてどれだけ深い絆を築いていったか、という部は触れられていません。

しかし本作においては、元祖「奇跡の人」では触れられなかった“コミュニケーションが取れるようになった後の2人の関係性”(誤解のないように書きますが、登場人物は各作品で異なります)に、その本質があると考えています。

ネタバレになるので詳しくは書きませんが、マリーにとってマルグリットがいかにかけがえのない大切な存在であったかが分かる後半部は、元祖「奇跡の人」の感動の涙とはまた違う涙を流すことになります。

特に前半部であれほどマルグリットと“格闘”していたマリーが、マルグリットに寄り添うシーンは、2人の間に神秘的な光が射しこむようで、なんとも儚くも美しく忘れられないシーンでした。前半部でマリーがマルグリットの顔を何度も掌で触り、マルグリットであることを認識しようとするシーンでは、マリーの掌から不安や恐怖、強い警戒心が伝わってきました。しかし、後半部では、一見同じように見えるその掌に優しさ、愛、信頼が溢れていて、とても温かい気を発しているようにすら映るのです。

奇跡に導いた人と奇跡を叶えた人、2人の“奇跡のひと”の絆の物語。決して二番煎じでは終わらない、噂に違わぬ素晴らしい作品でした。
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