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ある天文学者の恋文のニトーのレビュー・感想・評価

ある天文学者の恋文(2016年製作の映画)
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死者によって手繰られる生者の生。それを通俗的な恋という形で描出することのおどろおどろしさ。監督は本気でこれを純粋なラブストーリーとして観ているからここまで突き抜けているのではないのかしら。

いや、確かにこの物語を成立させるほどの強烈な何か、エドとエイミーを繋ぐことのできる何かは「愛」以外ではそれこそ「憎悪」くらいだろうから、正攻法と言えば正攻法ではあるのだろうけれど。

結構好きなタイプの映画でござい。音楽モリコーネだし、何気に豪華。

これ「ニューシネマ・パラダイス」の監督だったんですね。言われれば何となく、という気はしますがこの監督の映画「ニューシネマ~」しか観てないのでなんとも。あの映画は特に印象に残ってはいないのですが、今回の映画はかなりキてる。個人的に。

というのも、これは死者の話、死者が生者に・・・死者こそが生者を規定するという話だからなんですね。私の好きな「ライフ・アフター・ベス」に通じる死者映画なのでせう。

冒頭からすでに画面いっぱいに死の予感が充満している。それはファーストカットのやりとりからもそうだし、ジェレミー・アイアンズのエドから滲む空気のせいでもあるだろうし、あの年齢差の男女の関係として行きつく必然の帰結だから、というのもあるだろう。

そういう肌感覚的なものではなくとも、最初のシーンにおいて別れ際に見せる両者の反応の違いなどから察することはできる。

そして何より、この映画の中で二人が直接的にはだえを触れ合わせるのが最初のシーンのみで、あとはなにかしらのメディアを媒介することでしか接し合わないシーンの連続(というかこの映画がそういうシーンの積み重ねだけでほとんど出来上がっている)しかなく、エドとエイミーの間に隔絶した一線が明々白々に引かれているからに他ならない。

そこからは観ての通り、ひたすら死者(エド)によって生者(エイミー)が、愛という名の下に徹底的に規定されていく様を描く。

死してなお駆動しようと(させようと)するさまは、愛という名の狂気の執着に他ならない。劇中でエドの友人の教授が言及するように、エドは徹底的に自己中心的なのです。恐ろしいのは、その自己中心性は自分亡き後にこそ加速するというところ。

「ライフ・アフター~」のようにゾンビとして自身の身体すら必要とせず、手紙やメール(と同列に扱われる、身体を持つ他者)というメディアのみで生者を動かしてしまう。

けれど、それは何もおかしなことではない。よくよく考えれば我々の周りには死者によって遺された産物が充満しているのだから。本棚にある書物にせよテレビで流れる昔の映画にせよ、それらは生者に影響を与える。ともすれば生者によるものよりも。
それは10年以上も前に伊藤がスピルバーグについて語っていたことから分かっていることではあったけれど。
スピルバーグのような映像的暴力性を纏うことなく・・・いや、この規定性がそもそも暴力的と言ってしまえばその通りとしか言いようがない。


生者あるいは「生」などというよりも死者・「死」の方が強度があるということ。

人間の生のみを肯定し称揚し、それがマスに受容される世の中にあって、このような映画が観れることは喜ばしいばかりであります。
ニトー

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