まぬままおま

愛のように感じたのまぬままおまのレビュー・感想・評価

愛のように感じた(2013年製作の映画)
4.3
エリザ・ヒットマン監督作品。
月曜日の23日に鑑賞したのだが、衝撃的な作品だったため1週間ほど引きずってしまったし、憂鬱な気分になった。
けれど、いい作品。『17歳の瞳に映る世界』もよかったが、こちらのほうが好み。

日差しの眩しい夏。日焼け止めで顔を真っ白にした14歳のライラは、イケてる親友キアラとその彼氏・パトリックとビーチに出かけたり遊んでいる。3人は仲良く連れ立っているのだが、ライラは彼女らのいちゃいちゃぶりに嫉妬ともいえる鬱屈した気持ちも持ち合わせている。そこに現れるサミー。彼はキアラの知り合いであり、地元の大学に通うヤンチャな青年だ。そんな彼に心惹かれるライラは、気を引かせようとあの手この手を駆使していく。しかしそれは危険をも呼び寄せる行為でもあるのだが。

クローズアップによって、キアラを取り巻く彼らの肌に密着するカメラは、艶めかしい印象を与えるし、そんな肌に触れることができないキアラの疎外感を際立たせる。キアラは本当に可哀想な人物だ。彼女はいちゃいちゃに関われないどころか、その親密さをみることしかできず、証人になることしかできないのだから。そして彼女の肌に触れる行為と言えば、連れ出すために腕を掴まれることや卓球のラケットで尻を叩かれることである。そこには愛はなく、痛みしかない。しかしそれを愛のように感じるしか彼女にはできない。

髪の毛を染めたり、メイクを一生懸命にして大人に近づくための、ライラの努力は実らない。サミーはライラを一度たりとも女として意識することもなければ、性欲を発散するための対象とも認識していない。おまけには俺のアソコはお前が嫌いだとさえ言う。彼はちゃんと大人なのである。

ではなぜライラは愛に触れることができなかったのだろうか。鍵になるのは、彼女が上手く踊れないことにあると思う。

ライラはキアラと共にダンススクールに通う。キアラはチームのセンターであり上手に踊っている。それに対してライラはチームの片隅に位置しており音楽やチームメイトに合わせて踊ることができずいつもズレが生じている。
思うに上手に踊るためには、自分の身体と向き合う必要がある。自分の身体はどのように動かすことができるのか理解し、その動きを音に合わせようと意識する。しかも身体は音と共にチームメイトとも合わせないといけない。この身体と意識の相互作用、そして〈私〉と他者の相互作用。これらが上手く作用しなければ踊ることはできない。

このような諸相は恋愛にも、そしてライラ自身にも言えることだろう。

ライラは自分の身体に向き合っていない。自分の胸の高鳴りがどこからやってくるかも、意識もしていない。しかも彼女は触れて=身体を通して経験するのではなく、みるだけで外皮としての表層のみしか感じ取ってない。だからキアラらのいちゃいちゃをただみることを通して、それを愛の「ように」感じているだけなのである。しかも「キアラが彼氏といちゃいちゃして心の安らぎを得ている」と同様のことを得るためにサミーを彼氏にすることしか志向できない。本当は誰でもいいから彼氏にするのではなく、心の安らぎを与えてくれる人をいつの間に彼氏と呼んでいるはずなのに。しかもこのような志向性は他者を言葉の上での「彼氏」といった自らの都合のいいモノとしてしか扱っていないとも言えるだろう。

このようにライラは身体と向き合っているわけでもなく、他者とも上手く関わりをもてていない。だから彼女はダンスを上手く踊れないのである。

ダンスの発表会当日。仮面=ペルソナを被って幕開けを待つ彼女の顔は、日焼けで真っ白になった顔と奇妙に一致する。彼女は自分がなぜ上手く踊れないかを理解したわけでも、この夏の失敗の経験から成長したわけでもない。だからまだ上手く踊れない。ズレが生じている。それは彼女が依然として外皮=表層のみを取り扱い、その仮構と戯れることしかできないようだ。

しかし彼女にはもう一度感じ取ってほしいのだ。大人ではないからあどけない、けれどいつも側にいてくれるクラスメイトの彼とのことを。
そうすれば彼と上手く踊れるだろうし、愛の「ように」感じたではなく、愛「を」感じれる。