ニューランド

馬喰一代のニューランドのレビュー・感想・評価

馬喰一代(1951年製作の映画)
3.0
☑️『馬喰一代』及び『お伝地獄』▶️▶️
『狸御殿』等はよかったけれど、苦手な監督だ(10年位前に観た『幸福の限界』など原作に比べてもあまりに情けなかった、まぁ、映画は文化の最後進分野だからこのレベルでいいや、という感じなのか)。周囲にはファンが多いので、気づかない美点を見いだせたらと二本立てに臨む。前にも書いたが、明らかに嗜好の問題で何がいいのか殆ど分からないという監督はいる。邦画の野村芳太郎、千葉泰樹(誉れ高い『~画像』『鬼火』ですら、美的感覚では分かってもモラルがついてゆかない)、洋画のシュレンドルフ(『ブリキの太鼓』は’81の断然ワースト1とした)、S·クレイマー、A·コルピ、S·メンデスら。
しかし、これは気に入った。近~現代ものではベストかもしれない。『お伝~』も含め、特徴は認められる。自ら執筆の脚本は、細部や繋がりにデリケートさ·信憑性がなく、強引に繋いでる。美術や照明に得難い貴重な力がある。それを活かしたローアングルが時々をしっかひきしめる。縦移動を中心としたカメラ移動もしっかり力を誇っている。ドラマの引き締め·緊張感など二の次で、俳優やスタッフに好きに存分にやらせてて、ふと映画の醍醐味はこの線でいいのかとも思わす、等。
特に本作は、高利貸しの悪どさ·ライバル振り·友情の不可解さ、それは京のヒロインの位置付けにも、主人公の妻や競馬馬の病いと死のイージー使用、家の外気配への気づき方·神経痛の現れ方、実にいい加減だが逆に観る側にプレッシャーを与えない。「日本一の馬喰の誇り·意地」のはたらきかたもその場その場で違い一貫性はない。しかし、馬車·馬群の疾走フォロー(ロケとセット掛合わせ)、瀕死妻に駆けつける正面顔CU重ね、相撲の独自フィット動感伝わりと半イメージ視界、天に向かわす風船の上へフォロー重ね、主人公鈍感へのヒロイン呆れ荒れ、子供の表情·反応、のストレートで並みでない迫力延々·立体性も忘れた重ね連ねの表現の始原力には惹かれた(戦前北海道、妻の遺言どおり、息子を育て羽ばたせ抜く、昔気質·天然記念物的な馬喰)。
併せてデビュー5年に充たない三船が、それからの栄光の俳優人生の全ての原型·最高ボルテージを現し抜いてる。東宝や黒澤下の重責を抜きにして、己れの才能を開陳しまくってる。また、雨や雪の質量と家屋群の深く重いコラボ、堀の紙風船や土間の下駄残数や劣化による時間経過(DIS)表し、林や野や列車や競売人だかりや馬らの量とスピード、美術の味わいと格も並みではないコクがある。
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『お伝~』の方は、はまってく対象が夫から連れ出してくれる男(ら)に移って·殺人も重ねてく毒婦というより古風な女、不治で死に近づきそんな妻を誰にも渡さぬと焦り狂う男、の深まりはあっても、基本大まかで立体的カメラ切り替えと構図力は一応確かで美しくもデリケートではない(STOP化らがあるくらい)。しかし、それでもシネスコ期洗練され抜いた大映美術と照明の、生活風俗空間の必要以上の骨格(明治初期の上州→東京→横浜)·(暑い)季節の体感的表し方·時刻による光量と影(半)ボケ方ら、は眺めてるだけで納得させらる。
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