きょんちゃみ

アイヒマン・ショー/歴史を写した男たちのきょんちゃみのレビュー・感想・評価

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【定言命法も時代的価値観の制約を受けるのではないか問題】

「およそ命法は、仮言的に命令するか、それとも定言的に命令するか、二つのうちのいずれかである。仮言的命法は、我々が行為そのものとは別に欲している何か或るものを得るための手段としての可能的行為を実践的に必然的であるとして提示する。また定言的命法は行為を何かほかの目的に関係させずに、それ自体だけで客観的・必然的であるとして提示する命法である。」(『実践理性批判』S.414-S416)

あまりにも有名な話だが、カントは『実践理性批判』において、

「汝の意志の格率がつねに同時に普遍的立法の原理に妥当せんよう行為せよ」(=汝の主観的原則が普遍的な法則となることを求める意志に従って行動せよ=自分が規則だと思っているものが全員に当てはまるときだけ、その規則に従って自分は何かをすべきである)

と言っている。つまりこれは、

「誰もが行うべきだと考えられること(=形式的に考えられた道徳)だけをやってください。」

という意味である。そしてそれは、

「嘘をついてはいけない(=具体的内容としての道徳)」

とはまったく違うことを言っているように思われる。それゆえ、

「例えば、ナチスのゲシュタポから追われて逃げてきたアンネ・フランクを、ある家の主人が自宅に匿っているとして、その家にある日やってきたゲシュタポ隊員が「この家にアンネ・フランクはいるか」と家主に尋ねた場合に、カントはその場合であっても嘘をついてはならないので、家主は「アンネ・フランクを匿っている」と正直にゲシュタポ隊員に話せと言っている」

という、よくあるカントのリゴリズム(=厳格主義)を戯画化して批判する方式は、的外れであるように思われる。

というのも、たしかにカントは何があっても嘘をついてはならないと考えていただろうから、この批判はカントの価値観に対してはあてはまるかもしれないけれど、カントの倫理哲学に対しては当てはまらないように思われるからだ。

実際、このアンネ・フランクの事例では、

「誰もが行うべきだと考えられること(=形式的に考えられた道徳)だけをやってください。」

に従って行為すると、むしろ「誰もが嘘をつくべきだから嘘をつこう」という結論になりそうだからである。相手がアンネ・フランクだから助けたいとかそういう個別的な理由ではなく、命の価値と嘘をつかないで済むことの価値とを天秤にかけたときに、常に命の価値の方が大きいのだから、判断主体が誰であれ、匿っているのが誰であれ、嘘をつくべきだという結論が出てきそうなのである。おそらくアンネ・フランクのような優しい少女ではなく、みんなから嫌われている意地悪なおじさんが匿われていたとしても、家主は嘘をつかないで済むことよりもその意地悪なおじさんを救うことを優先するであろうし、このことは家主が誰であれその誰もが行うべきことである。実際、嘘をつかないで済むことの価値よりも命の価値の方を優先するようになっているということは、地球のどんな国家と社会においても普遍妥当することだと言える。事実、「人を殺してでも嘘をつかないでいたい」などと主張して、嘘をつきそうになると人を殺してまわるような異常な人はいるかもしれないけれども、それを公式に認める社会システムは現在ないのだから、このことは、どんな場合にも妥当すると言える。

18世紀に生きたカントという人物自身は、「誰もが行うべきだと考えられること(=形式的に考えられた道徳)」の具体的内容を「嘘をつかないこと」だと考えていたというだけであり、しかしこれはカントという人にだけにあてはまる特殊時代的なある価値観である。あくまでも、「誰もが行うべきだと考えられること」というのは「その時代にどこの地域でも、すなわち空間的位置を問題にせずに普遍的に認められていた価値」に過ぎないのだから、それが時間的には変化する可能性は全然あると言ってよいのではないか。カント個人ではなくカント哲学自体は、道徳の形式については厳格に規定しているけれども、内容については完全に無記なのだから、(そしてそれこそがカント倫理学の面白さであり素晴らしさなのだから)、もしカントさん個人の寿命が500年であり、こんにち21世紀までカントさんが生きていれば、21世紀まで生きているこの300歳くらいの老カントさんは、アンネ・フランク事例において、「嘘をつきなしゃれ。嘘をついていいんじゃよ。」と優しく微笑むのではないだろうか。
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